わると見え、大きな角で突っかかって行く。それを巧みに外《はず》すと、また次の者が赤い合羽《カパ》を振っておびき寄せる。そうするのをテュロ(おこつり役)という。牛はテュロたちに誘惑され、角を振りながら正面のバレラスの前へ引き寄せられる。
 其処にはピカドル(槍役)が馬上に槍《ブヤ》を掻い込んで待っている。ピカドルの足は重そうな脛当で保護されている。馬は左の腹を板囲いにくっつけ、右の腹を牛の攻撃に曝している。右の目が繃帯で包まれてあるから、兇暴な敵が迫って来てもわからないのである。遂にテュロたちは牛を馬の傍まで誘い寄せることに成功すると、ピカドルはいきなり槍を右手で持ち上げて、牛の頸根をねらって突く。穂尖は短いけれども、咽喉までも通るかと思われるほど深く嵌まる。血が赤いリボンのように牛の黒い脊筋から流れる。
 四本の脚を踏んばって突き刺さった槍の力を受け止めていた牛は、忽ち渾身の勇を揮《ふる》ってそれを反《は》ね返し、鋭い大きな二本の角でぐさりと馬の右腹を突いた。馬はピカドルを乗せたまま脆くも板囲いの根もとに押し倒され、ピカドルは反ね飛ばされた。
 キャーーーッ!
 裂帛《れっぱく》の叫び声が私の耳もとで叫ばれた。見ると、弥生子は顔を両手の中に埋めている。牛が馬か人かを突き殺したと思ったのだろう。しかし、誰もそんな初心な見物人を問題にする者はなかった。六万の目は熱心に牛の一対の角の上に集まっていた。馬の右腹は野球の捕手《キャッチャ》の胸当《プロテクタ》のような厚い革で保護されてあるので、私たちは腹綿の迸り出るのを見ないですんだのであるが、一九二八年以前だったら馬は一たまりもなくその場に絶命していた筈である。その頃はピカドルもしばしば突き殺された。ピカドルは今日では鎖かたびら[#「かたびら」に傍点]みたいなものを下に着込んでるそうだ。
 ところが、牛は勇猛ではあるが、愚鈍にできてるので、折角ピカドルを馬ごと突き倒しながら、第二の突きを入れる前に、駆け寄って来たテュロに赤い合羽を振られると、その方へ気を取られ、すぐその合羽の方へ突っかかって行く。それも人を突こうとするのではなく、赤いきれに突っかかって行くのである。幾ら突いても相手はふわりとして手ごたえがないので、勢力を消耗されるばかりだ。その間に、ピカドルも馬も助け起されて、もとの姿勢で板囲いの前にひかえる。
 これまでが
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