て、右手には剣を構えている。他の闘牛士《トレロス》たちは遠く離れて、アレナの真ん中には猛牛とメフィストだけが対立している。どちらも突っかかろうと睨み合っている。危機の瞬間である。満場の視線はすべてオルテガの剣の上に注がれている。牛が角を突き出して駆け寄って来る。素早く身をかわすと同時に、長い剣は(余程薄いと見えて)恐ろしくしない[#「しない」に傍点]ながら牛の頸筋に嵌まった。うまく行くと鍔もとまで通るのだが、その時は五寸ほど余っていた。それでも、牛は二三遍あがき廻った後で雨の中に横倒れに倒れた。喚声が一時に揚がった。
その時、雨は車軸を流すような勢いで降り注ぎ、天からアレナの幅ほどの滝が落ちて来るように見えた。見物人は、中には尻に敷いていた小さいクションを頭に載せたりして、皆後方の廻廊の屋根の下へ走り上った。アレナにも人影は見えなくなり、殺された大きな牛が黒い巨体を横たえているきりである。赤い血のリボンが砂の上まで一節長く伸び流れながら。
向うの入口から三頭の騾馬が六人の男に付き添われて駆け出して来て、死んだ牛を曳いて駆け去った。
その時、がら空《あ》きになったスタンドの最前列の座席(バレラス)に頑張って、土砂降りの中に濡鼠のようになってる一人の紳士と一人の婦人があった。雨のために演技が中止になりそうなので、(中止になるとその日の入場券はそれきり無効になるので)、豪雨にも拘らず座席を離れないで、演技を継続させようとする意志表示らしい。係員のような男が傍へ行って何やら話していたが、男はかぶりを振って座席を離れようともしなかった。女の方はあんまり雨がひどいのでやがて遁げ出したけれども、煙突男ではないバレラス男は最後まで頑張り通した。それがためかどうかはわからないが、やがて拡声器が第二回以下は明日午後四時半から続行すると報告した。
四
次の日も午前は少し降ったが、正午頃から霽れ上り、午後は強い夏の日がかんかん照りつけた。
昨日につづく第二回は小ベルモンテがマタドルだった。彼はエスパーニャ人としては白面の青年で、淡青色の上衣に同じ色のズボンを穿き、靴下は淡紅色で、瀟洒たるいでたちで、それに美貌が人気を集めて、よほどファンが多いようだった。
第三回のマタドルは昨日のオルテガで、例のメフィスト的な爛々たる凄い目を剥いて荒れ狂う猛牛を抱き込むようにして剣を
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