ることはいふまでもない。幕は切つて落されるばかりになつてゐる。私たちは丁度よい時に歸つて來たのだ。
 それにしても、このパリの町の靜けさはどうしたものだらう? 誰を見ても、何事も起りさうにもないやうな顏つきをしてゐる。歩いてる者も、掛けてる者も。多くの人間はなんにも知らないのだ。ただ、一人か、二人か、三人か、極めて少數の者が、どこかの片隅で工作してゐるのだ。それが今にも全ヨーロッパを修羅の巷とするかも知れないのだ。……
 ――とにかく出かけよう。
 さういつて私たちはそこを出た。
 彌生子はすぐ近くのモン・パルナスの墓地の横手に家《うち》を持つてる菊池君夫妻を訪ねるために歩いて出かけた。私は大使館に行く前に日佛銀行に用事があるので、AEのバスでルーヴルの先まで行つた。
 日佛銀行ではエスパーニャから持ち歸つたペセタをフランに換へてもらはうとしたが、もう取引は中止されて、だめだといふことだつた。支配人のY氏は氣の毒さうな顏をして、
 ――形勢が急にわるくなりましてね。
と嘆息してゐた。いろいろと人を走らせたりして工作してくれたが、ポンドとドル以外の外國貨幣はフランにはならなくなつてゐた。
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