かわからなかつた。
 柳澤健氏の家族の人たちにも逢つた。一日にパリで別れて以來、鹿島丸の來るのを待つ間、ロワイヤンに一まづ落ちついたが、田舍の警察は日本がまだドイツと組んでるものと思ひ込んで立退を命ぜられたので、ボルドーへ來たのだといふ。(柳澤氏はボルドーから汽車でポルトガルへ行つたさうだ。)しかし幾ら待つても鹿島丸が來ないので、五日の後家族の人たちはまたポルトガルへ立つてしまつた。
 パリでしばしば逢つてゐた若い留學生諸君もボルドーに集まつた。その中でK君は苦心して集めた大事な書物全部と論文をパリに殘して來たのが氣がかりで、まだ鹿島丸の入港しない内だつたから、此の分では何とかして論文だけでも持つて來られるだらうといつて、着いた翌日また引き返し、六日目に戻つて來た。パリは幾らか平靜に返つたといつてゐた。
 九月十四日は私の誕生日であつたが、今年は誰も赤飯をたいて祝つてくれる人もなかつた。その日、私たちがパリの大使館に保管を頼んであつた殘りの荷物が、幸ひにもパリのM君の好意で送り屆けられた。
 その次の日は、朝早く意外な人の來訪を受けて私たちは喜んだ。エスパーニャで世話になつた矢野公使が、車でパリからの歸途、昨夜遲くボルドーに入つたのだけれども、ホテルがどこもいつぱいで車の中で夜を明かしたといふことだつた。私たちは下の食堂でいつしよに朝食をして、誘はれるまま、その車で鹿島丸を訪問することになつた。公使は船長F氏を知つてるので久しぶりで逢ひに行つたのである。
 ボルドー橋を渡り、河の右岸に沿つて二十分も車を駈けらすと、バッサン・アヴァルに着いた。鹿島丸はポスト第二號に横づけになつてゐた。船腹に日の丸が描いてある。戰爭區域を航行するので中立國の旗幟を鮮明にしようといふ表示である、梯子の下にはフランスの警官が二人武裝して立つてゐた。甲板にはもう乘り込んで散歩してる人たちがあつた。知つてる誰彼の顏も見えた。船客は昨日から乘せることになつてゐた。しかし、まだ出帆の日が發表されてなかつたので、大部分の人は乘つてなかつた。
 私たちは船長室でしばらく話し、晝飯の馳走に預り、今度は船長を誘つて船を出て、またボルドーの町へ引つ返し、サン・ミシェルの寺と、塔と、塔の下に隱されてある七十體のミイラを(これは私の案内で)見物し、それから郊外に出て、シャトー・ブリオンといふ見事な葡萄畠を(これは矢野公使の案内で)見物し、再び船に戻つて、パリの大使館から出張して來た事務官T氏、觀光局のY氏、マルセーユの副領事X氏などと一所になり、夕食後歡談に夜を更かし、十一時頃ボルドーの町へ歸つて來る途中、星月夜の街上に夥しい歩兵部隊の出征する所に出逢つた。停車場の方へ道歩《みちあし》で行進してゐたが、みんな默默として、靴音だけが高く響いた。
 私たちが鹿島丸の船客となつたのはその翌日(九月十六日)であつた。前の日、船を訪問した時、十六日の午前中に船客は全部乘り込んでもらひたいといはれた。順調に蓮んだら十七日には出帆したいといふことだつた。しかし、船ではまだ行先を發表してなかつた。それでも、いろんな根據から推定して、多分リヴァプールに寄港するのだらうと考へられた。けれども、それから先ははつきりしなかつた。恐らくパナマを通つて太平洋に出るのかとも思はれたが、その途中ニュー・ヨークに寄るかどうかはわからなかつた。船長自身にもまだわからなかつたらしい。
 鹿島丸には珍らしい航海者が乘つてゐた。此の船は大角大將・寺内大將などを乘せてナポリまで來ると、戰爭が始まり、それからマルセーユまで來ると、マルセーユで日本に歸るつもりで乘つた人が十二名、その人たちはボルドーへ運ばれ、これからイギリスへ運ばれて行くのである。その中には私たちが以前パリで知つてゐて、もう日本へ歸りついてるのかと思つてゐたF君も交つてゐた。
 更に氣の毒なのは、七月に日本を出て以來、ヨーロッパが戰亂の地となつたので上陸することができないで、此のまままた日本へ歸るといふ人が七名も乘つてゐた。
 その他はすべてボルドーから乘つた人たちであるが、私たちの外二三名を除けば全部フランスに滯在してゐた人たちなので、リヴァプールなどには寄らないで此のままスエズの方へなり、パナマの方へなり行つてもらひたいと、頻りにさういつてゐた。イギリスに滯留してる日本人の多くはイギリスに大きな愛着を感じてるやうであつたが、フランスに滯留してる日本人はまたフランス一點張で、イギリスには少しも親しみを感じてないやうだつた。それを私は一つの興味ある現象として考へて見た。
 さて、船には乘り込んだものの、いつ出帆するかわからないといふことだつた。出帆命令が來ないからである。大使館は何をしてるのか?マルセーユの領事館はどうしたのか?ロンドンのN・Y・K支店
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