聞いて見なさい、と注意して、そのアドレスを教へてやつた。彼等はすぐそこへ行つたに相違ない。けれども多分ことわられたのだらう。それから後もときどき顏を合せてゐたが、いつも淋しさうな表惰で會釋をするのが氣の毒だつた。
 彼等はその以前に合衆國の汽船會社支店にもカナダの汽船會社支店にも頼みに行つたのだけれども、アメリカ人やカナダ人の歸國する者さへ收容しきれないのだから、といつてことわられたといつてゐた。數日の後、私たちが鹿島丸に乘り込む時まで彼等は心細さうな顏をしてホテルの玄關を毎日出たり入つたりしてゐた。

       一一 鹿島丸

 十二日になつて、やつと鹿島丸はボルドーに入つて來た。
 すでに三日にマルセーユを出帆したといふ報告を聞いてゐたのに、どうしてかうも後れるのだらう、と、ボルドーで待ちあぐんでゐた百數十人の日本人は誰しも不審を懷かない者はなかつた。
 しかし、とにかく、鹿島丸は入つて來た。
 入つては來たけれども、まだ乘るわけにはいかないといふ。
 疑惑がまた廣まつたが、すぐにその理由は知れわたつた。鹿島丸はハンブルク行の積荷一二〇〇トンを載せてゐた。それをフランス政府に差押へられたのである。それを荷揚するために、ボルドーの港から八キロ(町からは十三キロ)の下流なるバッサン・アヴァルの岸壁に碇泊しろと指定されたのである。
 それで翌十三日、上汐《あげしほ》の時刻を見はからつて船はバッサン・アヴァルへ下つてしまつた。避難者の乘込は、その荷揚がすんでからといふことになつた。
 乘り込むまでにまだ暇があるので、書き洩らしたことを少しばかり補つて置くことにしよう。
 ボルドーに着いた翌日、私たちはプラース・デ・グラン・ドムの附近のホテルに落ちつくと、彌生子は前の晩停車場で見はぐれた正金の家族の人たちが心配してるといけないから、無事に落ちついたことを早く知らせて上げたいといひだした。人口二十五萬の都市だから、ホテルの數だつて大小おびただしいものだらう。それをしらみつぶしに搜すわけには行かないのであるが、搜すのに一つの手がかりは、一行二十七人といふ大勢ではあり、殊に子供の數が非常に多いといふことだつた。日本人の子供は外國人の子供のやうに室内におとなしくしてないで、戸外にたかつて遊んでるに相違ないから、公園とか廣場とかに行つて見たら出逢ふかも知れない。さう思はれたので、さういつた場所を搜して見ようといふことになつた。
 しかし、もつと何とかした手がかりがあつたら、ホテルから當つて見た方がよいかも知れないと思ひ、誰かがホテルの名を話してはゐなかつたかと聞くと、或る人がプラットフォーームで荷物の番に當つた婦人に話してゐたホテルの名を小耳に挾んだが、疲れてゐてよく聞いてなかつたのだけれども、Mの字が發音されたやうに記憶するといふ。甚だ心もとない話ではあつたが、電話帳でMの字の初めに附くホテルを調べ出して、オテル・マヂェスティク、マリウス、マルマンデー、モントレー、ド・ラ・メルシ、等、等。それ等を番地と一所に書きつけて搜しかかつたけれども、結局だめだつた。
 翌日ブッファル街の警察署《コンミサー》に出かけて、日本の淑女たちと子供たちの大勢泊まつてるホテルはわからないだらうかと聞いたが、これも要領を得なかつた。最後に、停車場で消え失せたのだから停車場附近をもう一度搜して見ようといふことになり、電車でサン・ヂャンまで行つて見ると、構内のホテルの窓の中に日本人の子供が幾たりものぞいてゐたのですぐ發見した。そこがホテルになつてゐたことは、前にも記したやうに、その時初めて知つたのである。それにしても、オテル・テルミニュのミ[#「ミ」に傍点]が強く響いたといふのも疲勞のせゐだらうと笑つてしまつた。
 私たちはホテルに行つてS君に逢ひ、I夫人にも逢つた。そこで、偶然にもM氏とその家族の人たちにも逢つた。M氏にはシャルトルへ行つた時その車に乘せてもらつたことがあつた。今度は家族の人たちの乘船を見送りに來てるのだが、その車で邦人避難者で車にこまつてる人たちを運んでやつたりしてゐた。尊敬すべき奉仕だ。
 その日も、停車場では出征軍人の見送を幾組も見た。見送といつても細君一人が見送つたり、母一人が見送つたりして、默つて抱擁したり接吻したりするだけで、群集の堵列もなければ喚呼もない。眞情の涙と無言の告別だ。
 その夜、彫刻家の菊池君から電話で、やつと着いたといふ知らせがあつた。翌日逢ふと、作品は全部パリに殘して、汽車に乘れないので大枚四千フランを奮發してハイヤで畫家のM君の家族と二家族で着いたのだといふ。またM氏の家族と一所になつてる若いA夫人にも逢つた。彼女の父(私の一高時代の同窓岩永裕吉君)が亡くなつたことを初めて聞いた。驚きと悲しみで何といつて慰めてよい
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