えてゐたから、ほんとうに來たのかも知れない、とその人は眞顏になつて話した。それから、午前十一時頃にもまたアレルトがうなりだして、また高射砲の音が方方で聞こえてゐた。眞夜中ならとにかく、晝間のことだから演習とは思へなかつた。あの音を聞くと全く落ちつかなくなる。世の中にあんな咀ふべき音響はない。さういつてその人は憤慨してゐた。
 今一人の人は、パリの大學都市の附近に爆彈が落ちたといふ話を持つて來た。君が見たのかと聞いたら、見はしなかつたが專らそんな噂だつた、といふことだつた。
 フランスとイタリアの國境は、一度閉されてゐたが、すでに開かれてるといふことだ。ボルドーに避難してる人の中には、これからマルセーユに出てイタリアに入り、ヂェノアかナポリから船に乘らうといつてる人もあつた。その人は、フランスに着いたばかりで戰爭になり、フランスの美術が見られなくなつたので、せめてイタリアだけでも見て歸りたいといつてゐた。しかし日本郵船はこれから當分皆パナマ經由で歸るともいはれてゐたので、イタリアに行くことも躊躇してゐるやうだつた。
 新聞はイギリスの飛行機が首相チェインバレン氏の名に於いて「ドイツ人に告ぐる」ビラを撒いたと報じた。イギリスはドイツ人を敵とするのではない。ヒトラー氏の信義に悖る行動を恕すことができないのだと書いてあつたさうだ。
 此の種の宣傳に幾ばくの效果を期待してよいか知らないけれども、此の度の戰爭は宣傳に始まつて宜傳で進行してゐるやうな觀がある。三日にはチェインバレン、ダラディエ、ヒトラー諸氏の放送があつたさうだ。
 七日。フランス政府のコンミュニケはザール方面に於けるフランス軍の進出を報じた。マヂノ線から進出してジークフリート線の方へ接近しつつあるといふのだつた。ドイツは東部戰線に主力を集注してポーランドの占有を目ざしてゐるので、もしさうだとすれば、西部戰線は受身の形になつてるのだらう。
 八日。フランス政府のコンミュニケは、ドイツが西部戰線の方へ強力な援軍を送りりつあることを報道した。
 九日にパリを出た人の話。――
 パリに殘留する外人は改めて殘留の理由を警察に屆け出なければならぬことになつた。身元證明書に査證《ヴィザ》を取るのであるが、それに指紋を要するのが不愉快だといつてゐた。彼はその時は殘留しようか歸國しようかと迷つてゐたので、念のため査證を取りに行つたところが、警官が亢奮してゐて甚だ穩やかでない言葉を使ひ、此の非常時にパリで學問をしようと思ふなどは心得ちがひだ。殘留するのなら義勇軍に志願しろといつたさうだ。一人のブルガリア人は何か口ごたへをしたので横つ面を撲《は》られ、最後に階段から蹴落された。その青年はそれを見てこわくなり、査證ももらはないで歸つて來た。
 いつしよにその話を聞いてゐたAは、なんだかフランス人らしくないね、といふと、Bは、それがフランス人だよ、といつた。
 それから、パリでは諸般の取締が日に日にやかましくなり、アレルトの鳴つてる間、即ち、人人がアブリへ逃げ込んでる間、他人の室内に侵入した者は死刑に處するといふ布令が出たさうだ。戸外でガス・マスクを携帶しない者は三十フランの罰金を課するといふ達示も出たといふ。ガス・マスクはボルドーの市街でもたいがいの人は持つて歩いてゐる。しかし、船を待つてる外國人には持つてない者が多い。
 私たちのホテルには二三日前から一組のドイツ人らしい家族が泊まつてゐたが、そのうち二十《はたち》あまりの息子らしい青年は姿を消した。私は市街の方方に貼り出されてある掲示を思ひ出した。敵國の國民で十八歳以上五十歳以下の男子は何日何時まで毛布と寢衣を持つてどこそこに集合して當局の指示を待つべしといふ意味の命令だつた。一定の場所に集めて何かの勞役に服せしめるのだらう。もちろん一種の捕虜である。
 息子を奪はれた家族の人たち――父親と母親と娘――は見る目も氣の毒なくらゐにしよげ込んで、いかにも肩身狹く感じてゐるらしく、下の食堂には大ぜいのフランス人がいつも外からも來るので、食事の時間もずり下げて片隅に小さくなつてかたまつてゐた。或る日、食堂の入口で出逢ふと、人なつかしげに寄つて來て、あなた方は日本の船でアメリカへ行くのではないだらうか、と尋ねた。アメリカへ寄ることになるかどうか、まだ船が來ないからわからないけれども、とにかく日本の船でフランスを去るのだ、といふと、われわれをも乘せてもらへまいかと熱心にいひだすのだつた。できたら乘れるやうに助力して上げたいけれども、恐らく日本人以外の人は乘る餘地がないだらう。と、さう答へる外はなかつた。鹿島丸の收客人員は百三十名であるのに、申込者はすでにそれを超過してるといふやうなことを私は聞いてゐた。しかし、くわしいことはN・Y・Kラインの代理店に行つて
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