は何をしてるのか?と、そんな聲が船内に聞こえるやうになつた。一般乘客には眞相がわからないので、不安と不滿が充滿した。パリを出る時は乘せてもらふことが一つの感謝であつた者までが、乘り込んでから事態がかうこじれて來ると、不平の方がつのつて來て、一體此の船は避難船か商賣船かと開き直つたりする者もあつた。
 埠頭には大きたクレインが三臺も四臺も運び出され、大勢のベレ帽をかぶつた人足どもが、毎日朝早くから日の暮まで、艙口《ハツチ》の底から荷物を吊し揚げて倉庫の中へ運んでゐた。船客は、それを甲板に出て見物したり、船から下りて附近の葡萄畠を見に行つたり、タクシをつかまへてボルドーの町へ用たしに出かけたりした。みんなくさつてしまつて、つまらなさうな顏をしてゐた。
 ――動かない船もいいもんだね。
 ――なんのことはない、オテル・カシマだ。
 そんなことをいつて興じてる者もあつた。
 やつと二十一日になつて、明日正午リヴァプールに向け出帆の豫定といふ掲示が貼り出された。その時までまだ航路は正式に發表されてなかつたので、やつぱしイギリスへ寄つて行くのだつたかと初めて知り、中には、まだイギリスを知らなかつた者はリヴァプールでもどこでもイギリスの一角に觸れることを樂しみにしてる人もあつたが、大部分の人は、イギリスの海岸は危險だからそんな所へ寄ることは御免を蒙つて早く日本へ歸りたいといつてゐた。しかし、とにかく、陸を離れるといふことは一般の喜びであつた。
 ところが、その日になると掲示は剥がされてしまつた。出帆はまた延期になつた。不安と不平が前よりも濃厚に充滿した。説明する者がないので疑惑が疑惑を産み、流言蜚語が飛び交《か》つた。事實は、フランスの官憲が更に法律の適用を考へ出して、中立隣國(ベルヂク)への積荷をも差押へ得る權利があると主張して、アントワープ行の貨物をも押へようとして、それにからんでのいきさつであつたらしい。
 ――これからまた幾日もかかつて荷揚が始まるのか?
 ――もう荷揚はすんでるんだ。それを取り戻さうとしてるんだ。
 ――そんな物はくれてやつて、早く出したらいいぢやないか。
 ――なあに、船では荷物の方がお客さんで、お客さんの方は荷物よりもつまらないもんだよ。
 ――荷物は不平を言はないからな。
 ――金になるからだ。
 そんな對話が取り換はされるのも聞かれた。
 船は殆んど全部積荷がから[#「から」に傍点]になつて、滿載吃水線の白い記號が水面から一メートル半も上の方に浮き上つてゐた。しかし、一度荷揚をした貨物のうち、アントワープ行の分だけは、或る有力な方面(日本の官憲ではない)の仲介に依つて差押を免かれ、その代りまた積戻しをすることになつた。ところが、二十三日は土曜日、二十四日は日曜日で、役人も人足も働かないので、二十五日の早朝からその分の積込みを半日ですませ、その日の午後出帆ができるといふことに決定した。
 船に乘り込んでから十日目、ボルドーに着いてから二十四日目に、とにかく鹿島丸は「ホテル」から「船」に還り、イギリスへ向つて錨を捲き上げた。

      附記

 フランス在住の日本人避難者を乘せた鹿島丸は、九月二十五日午後四時三十分バッサン・アヴァルの岸を離れて、ガロンヌ河を九〇キロ下航し、ビスカヤ灣を横斷して、人人の心配の種となつてゐたイギリス海峽をずつと東の方に見て、セント・ヂョーヂ海峽に入り、二十八日の明け方、やつとリヴァプールに着いた。
 地圖で見ると緯度でわづかに七度ほど北上するので、横濱から八戸の先の鮫港までぐらゐの航行に過ぎないわけであるが、鹿島丸は七十二囘の航海をする老齡船のことではあり、フランスの領海は一歩沖に出ると何處に水雷が敷設してないとも限らないといふ不安もあつて警戒しながら行つたせゐか、意外に時日を要した。それに航行中乘客に氣を揉ませた事件も一つならず起つた。私は寢てゐて知らなかつたが、ガロンヌを下つて、まだ下流のヂロンドを出きらないうちに、推進機に故障を生じて長い間停船してゐたさうだ。それから海に出てブルターニュの海岸を通つてゐると、どこかの(多分フランスの)驅逐艦に追つ驅けられて、燈火信號で西の方へ迂※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しろと命じられた。ブレストの軍港が近いので、その邊には艦隊が集まつてゐたらしい。日本の汽船は中立國の安全を守るため、船腹に大きく國旗の標章を塗り出して、電燈をあかあかとつけて走つてるので、その光で艦隊の存在を知られることを懼れての信號命令だつたらうと推定される。初めその信號が即時に受け入れられなかつたためか、驅逐艦はわれわれの船の周りを輪を描きながら追ひ立てて行つたのが、ちよつと氣味がわるかつた。さういつて實見者のU君が翌る朝みんなに話すと、なにしろ杖をつい
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