は荷物を下して息をついてゐた。後からも同じやうなあはれな影が幾つもつづいた。
 改札口には武裝した兵隊が五六人かたまつて立つてゐた。その劍がチカッと光らなかつたら、私は知らずにその前を通り過ぎたかも知れなかつた。そこいらには全くなさけないやうな灯がどこからともなく鈍い光を投げてるきりで、人の顏などはろくに見わけられもしなかつた。しかし、その邊はまだ明るい方で、内側は一層暗かつた。
 改札口は出たものの、私はどこに立つて彌生子の着くのを待つたものだらうか、と考へた。ポケットから時計を出して見ると、もう十一時を過ぎてゐた。朝の十時半に出た私の列車が夜の十一時に着くやうでは、朝の十一時に出た筈の次の列車は、着くまでにはまだ少くともあと三十分はかかるだらう。しかし、それはどの線を通つて來るのだらうか? どの線を通るにしても、全フランスの軍用列車は皆パリに向つて集まりつつあるのだから、延着しないといふことは考へられない。いづれにしても、驛長室へ行つて聞いて見た方が早道だ。
 そんなことを考へながら歩いてると、驚いたことには、すぐ前に立つてゐた、彼女が。――薄暗い闇の中に顏を竝べて改札口から出て來る一人一人を物色してる堵列の一番最後に、近眼鏡を光らして。さうして一つのスーツ・ケイスと一つのボストン・バグを足もとに置いて。
 ――どうしたんだ! もう着いてたのかい?
 全くそれは豫期しないことだつた。つい一瞬間前まで、待つのは私の方だとばかり思つてゐた。話を聞いて見ると、彼女の列車はトゥールからポアティエを通つて來たらしい。座席は早くから取つてあつたので腰かけて來ることはできたが、食物は私同樣一つも取ることができなかつた。ボルドーに着いたのは一時間ほど前だつたが、プラットフォームから改札口に出るまでに、同行の人たちに見はぐれてしまつた。同行の人たちといつても二十七人もあるのに、幾ら暗いとはいへ、見はぐれるのはをかしいやうだけれども。大震災の時、東京市内の到る所で起つた似たやうな事件が思ひ起された。暗さも混雜もまるで同じだつた。
 それにしても、二十七人もの人が改札口を出ると掻き消すやうに消えてしまつたのに當惑して、彼女は停車場の構内を搜しまはつたり、前の廣場のタクシの立場に行つて見たりして、もう一時間ばかりもうろつきまはつてゐたのだといふ。(二三日後にわかつたのだが、彼等は改札口を出るとすぐ右へ折れて、構内のオテル・テルミニュへ入つてしまつたのだつた。そのホテルのことを初めから聞いて置かなかつたのは迂濶だつた。また、私としても、それを確かめて置くべきだつた。夢遊病者の迂愚!)
 それにしても先に着いてるとのみ思ひ込んでゐた私の姿の見えないのが、彼女の第二の疑間だつた。どこかそこいらにゐて、お互ひに搜し合つてるのではないかとも思はれたが、燈火管制の下の暗黒はその不安を確かめることもできなかつた。もう少し搜して見て、それでも搜し出すことができなかつたら、野宿をするつもりだつた、といふ。構内のベンチの上にも、廣場のそこここにも、荷物に凭つかかつて眠つてる人たちを私たちはたくさん見た。それも大震災の時の風景に似てゐた。
 ――とにかく目つかつてよかつた!
 ――ほんたうに!
 さういつて安心し合つたものの、私たちは飢ゑて疲れきつて、いきいきした喜びを言葉に出すことさへもできなかつた。
 やつとの思ひで、荷物を持ち上げ、廣場を横ぎり、あかあかと灯のついてるレストランに入り、何か食はせてもらはうとしたが、ゆで卵二つのほか食ふものとては一つも手に入らなかつた。それを二人で分けて食ひ、すき腹にビアを流し込み、あとは明日のことにしようとあきらめた。
 けれども、宿を搜さねばならなかつた。
 それも精根を疲らす仕事だつた。初めに停車場附近の宿屋は全部あたつて見たが、どこも皆|滿員《コンプレ》だつた。ボルドーの中心はガンベッタ廣場の附近だと聞いてゐたので、その邊を搜して見ようと決心し、もうとつくに十二時を過ぎて、タクシをつかまへるだけにも多大の勞力と時間を費したが、善良な二三のボルドー市民の好意と助力でやつとそれに成功し、最初には一流の大きいホテルを次次に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らせたが、どこも皆|滿員《コンプレ》だつた。(その頃ボルドーには約一萬人の外國避難者が流れ込んでゐた。)その次には思ひきつて、それではどんなケチなパンシヨンでもよいといふと、ショファはいやな顏もしないで、また元氣よくハンドルを※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、狹い石疊の路次へはひつて行き、とあるいかがはしい小さいドアの前に車を停めて、ベルを押した。
 ややしばらくしてドアが開くと、一筋の幅狹い仄かな光の中に、小柄な寢間着姿のかみさん[#「かみさん」に傍点]
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