見ると、もう六時には間もなかつた。廣廣とした耕地の末はあまり高くない丘陵になつて、その上には銅色の雲が光つてゐた。氣がつかなかつたが、もう太陽は丘陵の向側に沒してゐた。
 皆戰爭のことを考へ込んでるのだらうか、乘客はいつものフランス人にも似ず、女も男も押し默つて深刻な顏をしてる者が多かつた。便所の前にはレヂオン・ドノールの略綬を附けた老軍人が、今一人の老軍人と立つて、時時小聲で話し合つてゐたが、彼等も疲れたと見え、乘降口のドアをあけて、その階段に足を下して床の上に尻をすゑてしまつた。さつきの青年はその後も子供たちの介添役を引き受けて、人を掻きわけては便所を訪問してゐた。その度に私の方へ會釋を送つて通つたが、或る時、
 ――ボルドーは十時になるかも知れませんよ。
といつた。それは私を困惑させた。私は今朝パリの宿を出て以來、一物も咽喉《のど》を通して居らず、それに、がらにもない宋襄の仁は私の身體を綿のやうに疲らせ、私の足を棒のやうに麻痺させてしまつた。もし半メートルでも歩きまはる餘地がありさへしたら、應變の運動法を實行することでもできたでもあらうが、不幸にして私に殘された一サンティメートルの餘地すらもなかつた。二つの靴は踏みつけた位置に膠着したままで、足と足と、胴と胴と、人間とトランクと、よくもかう巧妙に詰め込まれたものだ。その巧妙さは、私にテバイで見たツタンカーメンの小さい墓穴を思ひ出させた。カイロの博物館に陳列されてある彼の遺物の夥しい什物は全部テバイの王の墓の小さい穴倉の中に收まつてゐたのだ。私はその穴倉をのぞいて自分の目を疑つた。この小さい穴倉の中にあれだけの物が詰まつてたとすれば、まさに整頓の驚異だ! さう思つて感歎した。しかし、それは什物、これは肉體。肉體の方がより多く彈性があり、より多く詰め込まれ易いことはいふまでもないが。
 戰爭の恐怖はパロよりも整頓の才能をより多く持つ。
 ミケランヂェロの「最後の審判」の肉體の堆積。……
 ダンテ描くところの「地獄」のもろもろの圈の肉體の堆積。……
 諸君はトランクに縛られた憐れなプロメテウスを想像してくださることができるだらうか?
 なほつづく飢餓と涸渇と疲勞と困憊の一時間……二時間……三時間……四時間……
 列車は暗黒の中を駈けて行く。私と同じやうに、渇き切つて、疲れ切つて、呻きながら。
 闇の中に火が見え出した。熔礦爐の火だ! 地獄の火だ! 人殺しの道具をこさへる火だ! 戰爭を恐れて逃げ出した人間どもを威《をど》し立てる火だ!
 ――あれはどこです?
 ――ボルドーです。
 やつとボルドーに辿りついたのだ。ボルドーにあんな火が燃えてることを私は前に二度までも通つて知らなかつた。その火は、どこまで行つても同じ距離で、私たちに附いてまはつた。時時、森が、人家が、それを隱しながら。列車が旋囘を始めだしたのだ。どうしてもさうとしか思へなかつた。
 いきなり大きな黒い橋が私たちの前に來た。なぜか、列車は停まつてしまつた。川はガロンヌで、その橋を渡ればボルドーの町だといふことを私は知つてゐたが、列車は地獄の火の方へ戻りたいのか、停まつたきりで、いつまでたつても動きださうとしなかつた。人人は誰も不平をこぼす者もなければ、泣きごとをいふ者もなかつた。時と所を超越した此の氣まぐれな火龍の脊中に自分の運命をあきらめて委せきつたやうな顏をして默りこくつてゐた。私とても、はたから見たらさうとしか見えなかつたにちがひない。
 何十分かの後、列車がまた動きだして、ゴトゴトと鐵橋を渡つて、サン・ヂャンの停車場に滑り込んでも、別にうれしくもなんともなくなつてゐた。人間的な感情とか思慮とかを働かすべく私はあまりに疲れきつてゐた。
 プラットフォームの上に避難列車の吐き出した人間の數は非常な數だつた。そこには高い柱の頂上から降りそそぐ淡紫色の夢のやうな電燈の光が此の世のものとも思へないやうな影を落して無數の亡者どもの蠢《うごめ》きを描き出してゐたが、ふと氣がつくと、私自身もその亡者どもの群に交り、重い二つのスーツ・ケイスを提げて立つてゐた。
 どこへ行くのか? どうすればよいのか? なんにも知らないで、ただふらふらと歩み出してゐた。……
 たしかに一箇の夢遊病者の影像だつたに相違ない。

       八 邂逅

 ボルドーのサン・ヂャン停車場のプラットフォームは、階段を下りて、地下道を通つて、また階段を上つて改札口に出るやうにできてゐる。長さにしても大した距離ではないのだが、その晩は非常に長く感じた。私は二つのスーツ・ケイスを兩手に一つづつ提げて――それも大した重さではないのだが――十メートルも行つては休み休みしなければならなかつた。私だけではない。私の二三歩先を行つてる二人の大の男も私と同じくらゐ歩いて
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