の中に一人の母親が二人の子供をつれて皺くちやにされながら、大きなトランクを窓ぎはに立て、その上に小さ小方の女の子を腰かけさせ、大きい方――といつても六七歳――の男の子と自分でそのトランクを支へてるのが氣の毒なので、大事な座席を私はその婦人にゆづつてやつた。彼女は一應辭退したが、それでも喜ばしさうに腰かけ、女の子を自分の膝の上に抱へた。しかし、かよわい子供の手一つでは動搖するトランクを支へることはできないので、私がその傍に立つて力を貸してやらねばならなくなつた。そのため、私は不安な足で立つだけでなく、その厄介物の動搖に抵抗するだけの勢力をも寄與することになつたので、疲勞を早める結果になつた。
 更にわるいことに、私は私たちの列車の進行の經路を知らなかつた。ボルドーを通過してエスパーニャの國境まで行くことは知つてゐたけれども、ボルドーまでどの線路を通るのだか確かめてなかつた。確かめる暇さへなかつたことは讀者も知つてゐられる通りである。私はすでに二度ボルドーを通つた經驗があるので、いつもの如く、オルレアンからトゥールに出てポアティエを通るものとばかり思つてゐた。ところがさうでなかつた。
 オルレアンには停車した。停車する少し手前で、機關車がレイルの外に横倒れになつてめちやめちやに壞れてゐるのを見た。オルレアンを出るとすぐ、私たちの列車は囘避線に入つてまた停まつてしまつた。在郷兵のやうな服を着た老人が數人線路に沿うて立つてゐたのが近づいて來て、飮料水が用意してあるから飮みたい者は車から出て來なさいと觸れ歩いた。多くの人は車から飛び下りて水を飮み、まだしばらく停車するといふのでそのまま草の上に足を投げ出したり、寢ころんだりしてゐた。その間に一聯の軍用列車が非常な速度でパリの方へ駈け過ぎた。十分もたつたかと思ふ頃、また次の軍用列車が駈け過ぎた。窓からのぞいてるのは、軍裝してない青年が多かつた。中には手を振る者もあつたが、草の上に横たはつてる連中は萬歳も叫ばねば手も振らず、默つて見送つてゐた。
 軍用列車は殆んど引つ切りなしに幾つも通り過ぎた。初めからそのつもりで數へなかつたので正確な數はわからなかつたが、八列車か九列車か、或ひは十列車も通つたであらう。時間は一時間半か、ことによると二時間も待つたであらう。私は窓に凭つかかつて日記をつけたり、地圖を調べたりしてゐた。休息といへばその間だけが休息だつた。しかし初めから幾列車待つとわかつてゐたのでないから、草原に寢ころんでゐた連中も、一つの軍用列車が通り過ぎると急いで車の中へ戻つて來たり、また下りて行つたりするので、相當にうるさかつた。
 やがて動き出したかと思ふと、少し行つては停まり、また少し行つては停まり、停車場でもなんでもない所で停まつたり動き出したり、何をしてるのかまるでわからなかつた。こんなことにずゐぶんと時間を空費して、最後に本氣になつて走り出した時でも、速力はあまり出さなくなつてゐた。
 乘客は決して減らないで、停車場ごとに殖える一方だつた。停車場の名前はペンキで塗りつぶしてあつたり、布で蔽つてあつたりして、しまひにはどの邊を通つてるのか見當がつかなくなつた。
 ――トゥールはまだですか?
 私は人を掻き分けて通つてる一人の若い男に聞いた。その男はさつきオルレアンで私に水を上げませうかといつて水呑をさし出した青年だつた。彼は英語を話した。
 ――トゥールは通りません。私たちはトゥールをばあつちの方角に見て別の線を通つてるのです。
 さういつて彼は右手の方を指ざした。その邊から私はわからなくなつてしまつた。トゥールを右の方へ引き離して走つてるのだとすると、私たちの列車はポアティエをば通らないで、リモーヂュの方へ進んでるのだらうか? 地圖で見ると、さうとしか思へなかつた。私は隣りに立つてる瘠せた小さい男に聞いて見たが、彼もどこを通つてるのか知らないといつた。彼は今夜はアンダイエに泊つて明日エスパーニュの弟の所へ行くのだといつてゐた。
 ――エスパーニュはどこへ?
 ――トロサ。
と彼は答へた。トロサは私は何度も通つて知つてる所だつた。私のベレ帽もトロサの製品だ。ベレ帽はバスクの固有のもので、フランスでもそれをかぶつてゐるのをたくさん見るけれども、本場はトロサだとエスパーニャ人は威張つてゐた。
 さつきの青年がまた人を掻きわけて通りかかる。小さい女の子をつれてゐる。その女の子が便所へ行くのを手傳つてるのである。便所の前には人がいつぱい立ち塞がつてゐた。その人たちに道をあけてもらひ、女の子を中へ入れて、彼はドアの前に立つてゐる。さういへば、彼はさつきも他の一人の女の子をつれてゐた。私は彼に話しかけた。
 ――ボルドーには何時に着くでせう?
 ――六時頃の筈ですが、おくれるでせう。
 時計を
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