見し、私たちは挨拶した。二十七人の女子供の一行に交つてそれを宰領して日本まで同行するS氏にも逢つた。
 ――なにしろこんな状態で、餘分の座席が一つきりないものですから。
 ――いや、ありがたう。私の方は御心配なく。
 そんなことを手短かに話し合つた。私は十一時の列車には乘れないものとあきらめてゐた。しかし、もしかして他のどの列車かに乘れたら乘るつもりでスーツ・ケイスは二つ用意して來てゐた。それを赤帽に持たせて、ボルドーまでの切符を買はせようと試みた。
 赤帽は、二等でも一等でもよいかと聞いた。もう三等は昨日のうちに賣り切れてしまつたさうだ。私は二等を希望するけれども、一等でもかまはないと答へた。
 赤帽は私をつれて案内所へ行き、顏なじみらしい男と談判してゐたが、うまく一枚だけ手に入れることができた。すると彼は私の大きい方のスーツ・ケイスをいきなり肩にかつぎ、今一つの方を手に提げて、
 ――早く、早く、ムッシュ!
とせき立てる。どうしたのかと思ふと、私の座席劵は十時半發の列車なので、もう時間がないといふのだつた。
 私は驚いた。さよならをいふ暇もなかつた。構内は瞬間ごとに人が殖え、どこに誰がゐるかも容易にわからなくなつた。時計はあと一分しかないところを示してゐた。赤帽は私のスーツ・ケイスをかついで改札口から薄暗い「艙《ハツチ》口」の底の方へ駈け下りて行つた。運よく改札口の手前にI氏が立つてゐるのを見つけ、私は簡單に事の成行を話すと、
 ――奧さんには私から話して置きます。とにかく、それはよかつたです。
 ――さよなら。
 ――御機嫌よう。
 私は階段を駈け下りた。階段もプラットフォームも人がいつぱいだつた。赤帽は列車の前に待つてゐて、私を押し込めるやうにして乘せ、その後から二つのスーツ・ケイスを投げ込んだ。同時に、列車は動き出した。
 私は彼の忠實な努力に報いるために二三枚の銀貨をポケットからつかみ出して、彼のさし伸ばした手の平に入れてやるだけの餘裕をやつと持つことができた。彼は帽子に手をかけて、メルシ・ボクを投げかけた。
 全く期待しないことだつた。私は十一時の列車を見送つて置いて、その後で乘れたら乘る、乘れなくても、明日か明後日のうちには何とかしてボルドーまで行けるだらう、と考へてゐた。それが、偶然にも私の方が先に立つことになつた。正金の人たちは日本人の中でパリ落をする最初の組だといつてゐたのに、豈圖らんや、私自身が先驅者とならうとは!

       七 夢遊病者

 それから豫期しなかつた辛勞と困憊の十三時間が續く。
 それを今私は讀者に實感させることの困難を感じる。何となれば、初めの間は私は緊張して辛勞を尅服してゐたが、遂に長時間の辛勞に打ち勝たれて、殆んど名状することのできないほどの困憊の中に私のすべての神經中樞の活動は停頓してしまひ、今その時の記憶を喚び起さうとしても到底不可能であることを感じるから。
 考へて見ると、無理な列車に乘せられたのだつた。私が乘つた時、車室はどの車室もすでに滿員だつた。荷物をば乘降口に置いたままにして列車内を歩きまはつて見たが、あいてる座席とては一つもなかつた。たまに子供を二三人交へて比較的餘裕のある車室を見出して、そこに一人分餘裕がありますか、と聞いて見ると、否《ノン》ムッシュといつて、女は肘を張り、男は脚をひろげたりして、占有してる座席を讓るまいとする心事がはつきり讀み取れた。私の後について一人の若いフランス人も同じことを聞いて歩いたが、彼も拒絶された。私はその時ぐらゐフランス人を嫌惡したことはなかつた。これがイギリス人だつたら、決してこんな露骨なエゴイズムは見せられないだらうにと思つた。
 しかし、あきらめのいい人たちは初めから廊下の窓ぎはに竝んで立つてゐた。私もその仲間に加はらうと思つた。けれども二つのスーツ・ケイスを何とかしなければならなかつた。氣がつくと、鍵の手に引つ込んだ便所の前に幾らか餘地があるので、その横手の方にそれを立てかけ、更によく見ると、便所と脊中合せになつた隅に、車掌用のものと見えて、一つの小さい腰掛が羽目板にくつつけてはね上げてあつた。私はそれを下して、その上に腰を据ゑた。私は青年の頃腸チブスをわづらひ、その餘病として左足に靜脈の結滯ができて惱んだことがあつた。その後一と通りは癒つたけれども、登山をするとか、あまり長く坐つてるとか、あまり長く立つてるとかすると、一種の麻痺状態を來たして苦しむことがあるので、日頃から足だけは大事にしてゐる。それで、よいものを發見して一安心したものの、その安心も長くは續かなかつた。
 私たちの列車はオーステルリッツでまたうんと人が乘り込み、殆んど超滿員の状態になり、廊下も便所の前も文字通り立錐の餘地もないほどに埋まつてしまつた。そ
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