が現れ、つづいてピヂャマを着た脊の高い亭主らしい男が現れ、私たちの善良な肥つちよのシャツ一つのショファは半身を闇に隱して石段の上に立つて、長いこと押問答をしてゐた。さながらドーミエの群像だ。またことわられるのかと思ふと少しなさけなくもあつたが、それでもそのすばらしい生きた風俗畫を興味ぶかく車の中から鑑賞してゐるだけの餘裕が私には取り戻せてゐた。――此處がだめだつたら、またほかを搜さう。どうしても搜し出せなかつたら、ショファに宿賃を拂つて車の中で一夜を明かしてもよい。さう腹をすゑてゐた。
 ショファが、今度は肩をすくめたり兩手をひろげたりしないで、車の所へ戻つて來てドアをあけ、私たちのスーツ・ケイスを運び出した。地獄で佛に遭《めぐ》り逢つたやうな氣痔だつた。
 亭主はドイツ語を少し話した。彼は動員されて明日は入營し、かみさん[#「かみさん」に傍点]も或る勤勞《サーヴィス》をするので、此のパンシヨンは今夜きりたたむことになつたのだといふ。だから、今夜は特別にお泊めするが、明日の朝はお氣の毒だけれども出てもらはねばならないといふ。そんな話を玄關脇の小部屋でしてゐた時、一人の男が鞄を下げて二階から下りて來て、かみさん[#「かみさん」に傍点]に勘定をして出て行つた。
 入れちがひに、私たちは三階の一つの部屋に通された。その前に、かみさん[#「かみさん」に傍点]は部屋代を先拂に拂つてくれるかといつた。幾らだと聞いたら、十五フランといふので、私は五フランのティップを添へて渡した。
 天井の低い安つぽい寢室ではあつたけれども、その晩の私たちにとつては、ベルンで泊まつたホテル・ベルヴュウの豪華な寢室よりもありがたいものに思へた。實は南京蟲でもゐはしないかといふ心配もなくはなかつたのだが、たとひ南京蟲に食はれたとしても、氣がつく筈はなかつた。身體《からだ》が自分のものだか他人《ひと》のものだかわからないほどに疲れきつてゐたのだから。
 次の朝は八時過に目がさめた。ポリフェモスのやうに眠つたのだつたが、まだひどく疲勞を感じてゐた。鎧戸をはねあけて見ると、見覺えのある一對の寺の塔が、白い角《つの》のやうに窓の正面に竝んでゐた。ボルドーのカテドラル(サンタンドレ)だ。二十三日前に私たちがエスパーニャへ行く途中、見物した寺だつた。その寺からあまり遠くない所に昨夜は宿を借りたのだといふことが初めてわかつた。
 下へおりて見ると、玄關脇の小部屋でかみさん[#「かみさん」に傍点]は敷布《シーツ》を疊んでゐた。亭主の姿は見えなかつた。もう入營したのだらう。年の頃は五十そこそこに見えたが、あんな年寄を取つてどうするのだらうと思はれた。しかし、フランスでは十八歳以上五十三歳までの男は全部召集されるのだと聞いてゐた。話しながらかみさん[#「かみさん」に傍点]は泣いてゐた。
 私たちはタクシを呼んでもらつて宿さがしに出かけた。割に近くのプラース・デ・グラン・ドムのそばに手頃なホテルを見出して、まづ一週間の契約で三階の一部屋を借りることになつた。
 鹿島丸は七日にはボルドーに入港する筈になつてゐた。

       九 ボルドー膠着

 私たちは日本を出る時、ボルドーを見る豫定などは作つてゐなかつた。
 私の同郷の先輩O氏が若い頃水産技師としてボルドーに留學し、歸つてからその地方に關するいろいろの土産話を聞いた記憶があるので、それ以來ボルドーは一種の親しみを以つて考へられはしたが、今度の限られた旅行の日程に於いて、ボルドーに多くの時間と勞力を費すくらゐなら、まだ見殘した土地で見たい所は幾らもあつた。しかるに、偶然は不思議なもので、別に見たいとも思つてなかつたボルドーを飽きるほど見ることになつた。
 エスパーニャへ行く途中、ボルドーで汽車を棄てて、町のおもな建物を一瞥して歩いた時、ボルドーはこれでおほよそながら卒業したことにして置かうと考へた。エスパーニャからの歸途、今度は下りはしなかつたが、一度見た町のそこここを汽車の窓から眺めて、卒業した學課の復習をしたやうなつもりで通り過ぎた。ところが、戰爭は私たちをパリから追ひ立て、またボルドーへ運んでしまつた。よくよくボルドーに因縁が結ばれてゐたものと見える。先にいいかげんに速習したボルドーの知識が今度は正確な知識になつた。何となれば、私たちは鹿島丸の入港を待つ間、それから鹿島丸の出帆の日まで、それは實に退屈な長い逗留だつたが、その間、ボルドーを研究するより外にすることとてはなかつたのであるから。それで、もし他日私のボルドーの知識が何かの役に立つことがあるとしたら、私は今度の戰爭を始めたアドルフ・ヒトラー氏に感謝しなければならぬだらう。
 しかし、ボルドーのことよりも私たちはやつぱり戰爭の動向が知りたかつた。けれども、ボルドーでは
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