車は非常な混雜を豫期しなければならないので、持物は各自兩手で持てる程度に限つてもらひたいといふ通告を私たちは受けてゐた。私は明日彌生子を停車場へ送つて行くついでに、念のため自分の持つべきスーツ・ケイスを二つ別に持つて行き、もしどの列車かに乘れたらば乘り、乘れなかつたらその時のことにしようときめて、寢床にもぐり込んだ。
パリの町はシンと靜まりかへつてゐた。いつも眞夜中にも聞こえるモン・パルナスの大通の車の音がその晩は一つも聞こえなかつた。逃げるだけの人は皆逃げてしまつてるやうな氣がした。
――明日はわれわれの逃げる番だ!
さう思つて、しばらく感懷にふけつてゐたが、すぐその下から、
――しかし、今夜にも空襲があつたら?……
と、さう思ふと、靜まりかへつた窓の外の空氣が却つて何となく薄氣味わるく感じられるのだつた。
けれども、終日の心勞に打ち負かされて、間もなく深い眠に落ちた。
六 パリ落
九月二日。
開戰第一日のパリの夜は靜かに明けはなれた。空襲の不安を人人に感じさせた昨夜の暗さがうそ[#「うそ」に傍点]のやうに思はれた。それほどパリの昧爽の空は明るく、晴れがましく、なごやかだつた。私たちの部屋とむかひ合つた向側の建物の窓の鎧戸はまだ締まつたままで、いつも早くから聞こえる往來の物賣の聲もきこえなかつた。實はパリの最後の朝食を、いつものカフェのテラスに腰かけて、あのうまい珈琲とクロワサンでしたかつたのだが、出發前の氣持のあわただしさは、私たちをホテルの平凡な食卓で我慢させた。
ホテルに飼つてある灰色の太きな牡猫が私たちのテイブルの上に跳び上つて、人なつこさうに長長と寢そべる。私はそいつの頭を輕く叩きながら、マダム・Xの持つて來た『プチ・パリジャン』にざつと目を通すと、ポーランドの危急を報道する記事が大きく出てるだけで、フランスのこともイギリスのこともなんにも出てなかつた。
食事がすむと、M君の好意で※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してくれた車が來たので、正金の人たちと約束した時間にはまだ早かつたけれども、出かけることにした。
ケー・ドルセーの停車場には人がいつぱい溢れてゐた。正金の家族の人たちはすぐ目つかつた。日本人が二十七人も集まつてるのだから目つからない筈はなかつた。それに見送りの人たちも大勢ゐた。その中に支店長I氏を發
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