、さつきのボーイは電話では要領を得ないから自分で行つて來るといつて出かけたといふことだつた。私たちは十二時近くまで待つてゐたけれども彼は歸つて來ないので、彼には心づけを殘して、門番にタクシを呼んでもらつてホテルに歸ることにした。
タクシも容易に拾ひ出せなかつたが、それでも半時間ほど待つとやつて來た。門番夫婦もなつかしさうに車のところまで送つて來た。戰爭第一夜のシャンゼリゼーは、車道のところどころに圓く伏せてある指道燈のほのかな灯を除いては、光といふものが一切なく、兩側の竝木の梢の輪廓を暗い空の中にかすかに見わけ得なかつたなら、これがシャンゼリゼーだとはわからないほどに黒黒としてゐた。しかし、セーヌを横ぎると、川の面だけはどうすることもできず、夜目にもほの白く光つて見えるので、空から見たらすぐパリの在りかは知れるだらうと思はれた。
ホテルに歸ると、留守中に菊池君夫妻が見えたといつて、預けて置いたボストン・バグがとどいてゐた。今朝彌生子が訪ねた時は、一週間ほど前旅行に出たきりでまだ歸つて來ないといふことだつたが、多分この騷ぎで歸つて來たのだらうから、避難船のことを知らせようと、もう夜は更けてゐたけれども電話をかけると、二人ともすぐ訪ねて來た。
菊池君夫妻はトゥールの附近に藤田嗣治君夫妻と滯在してゐるうちに、形勢が日に日にわるくなつて來るので心配してゐると、今朝とうとう戰爭が始まつたのでそこを立ち、さつき歸つて來たばかりだといふ。菊池君夫妻が旅行するとは知らないで、私たちの方がエスパーニャに行くので預けて置いた鞄の中には、私たちにとつて大事な能面が入つてゐたのである。それを知つてゐた菊池君はトゥールまでそれを持ち運んで歸りの汽車の混亂の中で迷惑したことだらうと氣の毒になつた。
私たちは明日ボルドーに立つから(私自身はまだ汽車に乘れるかどうかわからなかつたが)、[#「が)、」は底本では「が、」]もし都合がついたら一緒に立たないかと勸めたけれども、菊池君は今度歸るといつまたフランスへ來られるかわからないので、製作品(彫刻)の始末をして置かなければならないから、あと一二日かかるだらうといふことだつた。それでボルドーでの再曾を約して別れた。
菊池君夫妻を送り出して、アヴニュ・オッシュから持ち歸つた物をスーツ・ケイスに收め、持物の整理が終つた時は、もう二時を過ぎてゐた。汽
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