朗らかな表惰ではない。パリはもう笑顏を失つたのだ。さう思ふと、いたましい氣持なしでは見られなかつた。
その中に一人の醉つぱらつた若い女が、丁度私たちと向ひ合つた席にかけてゐて、殆んどヒステリかと思へるほどの亢奮した調子で、たえず右隣りの蓮れの女に話しかけたり、ひとりごとをいつたり、時時左隣りの連れの男に接吻したりしてゐたが、ほかの人たちはにがにがしい顏をして輕蔑の目でその女を見てゐた。
エトワールで私たちは地上に出ると、もう夕闇が下《お》りてゐて、急に灯《ひ》の少くなつた市街はいやに陰慘な感じだつた。灯は皆紫つぽい藍色の灯ばかりで、それが殊にそんな感じを與へるのだつた。凱旋門は黒く大きく聳え立ち、その下に集まつてる人たちは、何を見てるのか、ぽかんとして、幾かたまりにもかたまつて立つてゐた。ひよつと氣がつくと、ブーロンニュの森の上あたりの暮れ殘つた灰色の空に大きな氣球が二つ黒く浮かんでゐた。
その邊も大通は車がヘッド・ライトを蔽うて織るやうに疾驅してゐた。その間をやつと横ぎつて、私たちは暗い歩道をアヴニュ・オッシュの方へ歩いて行つた。何度も來たところではあつたが、大使館邸の入口を探し出すのに少しまごついた。それほど市街は暗くなつてゐた。ベルを押すと、顏見知りの門番の親爺が出て來て、M君から電話で知らしてあつたので、私たちを荷物の置いてある部屋につれて行つた。
其處でトランクをあけて必要な物を取り出してゐると、やがてM君が代理大使と一緒に歸つて來た。丁度よいところだといつて食堂に案内された。食堂ボーイはもう召集令が下つてゐて、明日の朝入營することになつてゐた。しかし、それまでは義務があるといつて今夜も働いてるのだつた。それだけではなく、飛入の客人にすぎない私のために夜が更けてからケー・ドルセーの停車場まで使に行つてくれたりもした。
かれこれ十一時に近かつた。私たちは引き留められるまま、つい、いい氣になつて話し込んでゐた。彌生子は明日は確實にボルドーへ行けることになつてゐるが、私の方はどうなるか全然わからなかつた。代理大使は、列車は別でもなるべく明日立てたら立つた方がよいと思ふといひ、さつきボーイに電話でケー・ドルセーの停車場に座席劵一つだけ無理でも都合してもらへないか交渉して見るやうにと命じた。いつまでたつても返事がないので、呼んで見ると、ほかのボーイが現れて
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