止まつて戰爭の姿を見たいと思ふ氣持と、この二つの氣持が私の中にあつた。いづれにしても、身のまはりの用意だけはして置かねばならぬので、私はみんなに一先づ別れを告げ、代理大使にも挨拶して大使館を出た。
 トロカデロの廣場には初秋の午前の陽光がさんさんと降りそそいで、半ば黄葉した竝木の間からは、エッフェル塔がすつきりした形で淡青色の空に聳え立つてるのが見える。いつも見馴れた景色ではあるけれども、今日は新しい氣持で見直さうとするやうな心がまへが私にあつた。その下にパリは靜かに横たはつてゐた。どこを見ても靜かであつた。廣場には人の群がりもなく、あわただしい足どりもなく、叫ぶ聲もきこえず、ささやく姿さへ認められなかつた。こちらでは年とつた一人の掃除人夫が歩道の落葉を掻き集めて居り、向うではカフェのテラスに人がまばらに腰かけて、新聞を讀んだり煙草を吹かしたりしてゐる。彼等はまだ戰爭の始まつたことを知らないのではないだらうかとさへ思はれた。
 私はメトロでモン・パルナスまで乘つて、ホテルに歸つた。車の中でも、往來でも、みんなの顏が深刻には見えたけれども、荒く興奮したやうな所は感じられなかつた。ところどころ家家の入口には赤地に白く爆彈の形を描いた札が打つてあつて、その下に30とか50とか85とかいつたやうた數字が記してあつた。空襲の時のアブリの避難者收容數である。さういへば、今夜にも空襲がないとも限らないのだ、と、そんな不安もあつた。……
 私たちは明日にもボルドーへ落ちようといふことにきめた。つい昨日エスパーニャから歸つて來たばかりの道をまた逆戻りして。
 午後私は近所へ用|達《た》しに出かけると、途中で若い畫家のO君に出逢つた。一緒にカフェに入つた。君はどうするのかと聞いたら、踏み止まるつもりだといふ。大使館では用事のない者は六日までに皆鹿島丸に乘れといつて、僕等畫かき連を全部追ひ立てる腹らしいが、僕は勉強するために來てるのだから、まだ歸るのはいやだ。フランスにゐられなくなつたら、ほかの國へ行つてもよいと思つてる。今歸つてしまつたら一生を棒に振ることになるから。と、さういつて、決心を披瀝した。そこへ一人の男が現れて、青白い顏をして、足もとをふらふらさせながら、ヒトラーを罵つたり、戰爭を咀つたり、日本の畫壇を嘲笑したりしてゐたが、私たちが出て行つた後まで亂醉の聲がまだきこえてゐた。
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