だらうといふのであつた。それで交通機關の混亂に陷らないうちに、一日も早くボルドーへ行つて、そこで船の入るのを待つてもらひたい。その船を取りはづすと、今後は日本へ歸る船をフランスでつかまへ得るかどうかわからない。さういはれて見ると、とにかく鹿島丸に便乘を申し込んで置かないわけには行かなかつた。(靖國丸はノールウェイのベルゲンに待機してゐたが、そのままイギリスの北を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歸途についたので、イギリスにもフランスにも寄港しないといふ。)
 柳澤氏とは東京での再會を約束して別れ、私はM君としばらく話したが、昨夜の觀察とはちがひ、今朝になると急激に形勢が惡化したので、ロンドンへ歸ることは思ひ止まつてもらひたい、といふ。今一人のM君もそこへ來て、ボルドー行を勸めて口を添へる。
 私もその時はすでにその氣持になつてゐたのだが、話の途中で柳澤氏にサン・セバスティアンへのことづけを頼むことを思ひ出したので、(柳澤氏は車でボルドーからエスパーニャを横斷してリスボアへ歸ると聞いたので、)ちよつと中座して、あまり遠くない柳澤氏のホテルへ車を飛ばして行くと、家族の人たちはもう車に乘り込んで、柳澤氏の歸つて來るのを待つてるところだつた。やがて柳澤氏は歸つて來た。話は二三分ですんだ。
 その車を見送つて、コンコールドの廣場からシャンゼリゼーの大通を通りながら、これがパリの見納めかと思ふと、少年のやうな氣持で何もかも名殘惜しく顧みられるのであつた。
 大使館に戻つて來ると、ロイター通信機の前に書記官T氏を交へて數人の人が、默つて熱心にその吐き出す細長い紙の面を見つめてゐた。
 ――とうとう、始まりましたよ!――
とM君が私を手招きした。今朝の五時四十五分にドイツ軍のポーランド侵入は開始され、ワルサウその他の都市は猛烈な爆撃を受けてゐる。英佛は強硬な抗議を申し込んだ。……
 來るべきものは遂に來た。戰爭は事實に於いて始まつたのだ。いつ宣戰布告があるかは知らないが、そんなことはもう問題ではない。世界は恐るべき歴史の第一ペイヂを書きだした。さう思ふと、私は大變な時にヨーロツパに來合はせたものだと、つくづく感じないではゐられなかつた。
 混亂の渦に捲き込まれないうちに安全地帶まで早く避難した方がよからうと思ふ氣持と、めつたに得られない此の機會を利用して少しでも長く踏み
前へ 次へ
全43ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング