りだした。
半月前に出た時はパリは美しい平和の都であつた。セーヌの河岸にはもうプラターヌの葉が黄いろくなりかけて、ノートル・ダームの下にはいつものやうにのどかな顏を竝べて釣竿をさしだしてゐる連中を見ながら、私たちはケー・ドルセーの停車場へ車を駈けらした。あの朝のことが何だかよほど以前のことのやうに思へる。それにしても、今日あたりパリはどんな風だらう?……
ダックスの停車場で買つたパリの新聞を彌生子はひろげて見てゐたが、それをのぞいて見ると、畫報面に、昨日撮影した寫眞がいろいろ出てゐる。ブールヴァル・デ・キャピュシーヌあたりかと思はれる街路のショウ・ウィンドウの前に砂嚢が高く積み立てられてあつたり、ルーヴルから彫像を包裝して運び出してゐたり、小學校生徒を地方へ連れて行くバスが通つてゐたり、名前とアドレスを記したカードを首に下げた少女たちが絡《から》げた毛布を提げて石のベンチに腰かけてゐたり、いづれも動亂の状況を想像させないものとてはなかつた。
私たちのコンパルティマンには日燒のした青年と黒づくめの服裝をした婦人が乘つてゐた。あとで話し合ふやうになつて、彼等はビアリッツの海水浴場に滯在してゐたイギリス人だといふことがわかつた。三週間滯在してゐたが、形勢がわるくなつて來たので引き揚げるのだといつてゐた。
汽車は正午ごろボルドーを通り、夕方七時過パリに入つた。
一つ手前のオーステルリッツの停車場では構内の窓ガラスを全部濃藍色に塗つてあつた、夜間に内部の光が漏れないためだらう。さういへば、列車内の便所の窓も同じ色に塗つてあつた。また同じ構内には、國旗の三色と赤十字を描いた病院列車も待機してゐた。
かなり大勢の人がそこで下り、皆默默としてプラットフォームを歩いて行つた。
四 モン・パルナス
ケー・ドルセーの停車場にはM君が氣を利かして車で迎へに來てくれてゐた。
――どうです? 始まりさうですか?
――何ともいへないのですが、今のところ戰爭にはならないですむのぢやないかとも思はれます。
私たちはそんなことをまづ話し合つた。
それからリュクサンブール公園の横手の薄暗い通《とほり》を急いで、モン・パルナスの以前のホテルに歸り、荷物を置き、M君を誘つて一緒に食事に出かけた。
モン・パルナスの大通はその晩はまだいつもと變らず明るかつた。カフェには
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