いてゐた。また西洋のことは西洋の人が一番よく知つてる筈ではあるけれども、彼等とても根據のない自尊心を固執したり、辯護し得ない偏見に煩はされたりすることがないとも限るまい。それで彼等の間では立派な傳統となつてる問題でも、われわれはわれわれとしてそれを修正し得ない理由はないと思つてゐる。だから、さういつた問題に逢着すると、つい理窟をいつて見たくもなるのである。
 それに、歴史的背景を描いて物を見ようとするくせが私にはあるやうだが、これはわれわれが例へば奈良へ遊びに行く場合を假定して見て、奈良の文化史的背景を實感しないで、ただ大佛を拜んだり鹿を見たりするだけでは、殆んど見學の意味をなさないことを考へてくださるならば、西洋の現状を西洋の文化史的背景の前に置いて見ようと試みた私の努力が、必ずしも個人的道樂でもないと理解していただけるだらう。
 終りに臨んで、これだけのものが本になるまでに、松本正雄・赤羽尚志兩君の厚意に負ふところが多かつたことを感謝する。

  昭和十六年七月[#地から3字上げ]著者



底本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
   1941(
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