「西洋見學」はしがき
野上豐一郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
−−

 昭和十三年(一九三八年)十月一日、郵船靖國丸でヨーロッパへ向つて神戸を出帆し、翌十四年(一九三九年)十一月十八日、郵船淺間丸でアメリカから横濱に入港した。
 旅行の目的は、イギリスの諸大學で、交換教授として、能の藝術理論を中心として日本文化の特質について講義することであつた。講義したのは、ケインブリヂ、オクスフォド、ロンドン、リーヅ、ダラム(ニューカッスル・アポン・タイン)の五大學と、二三の學會であつた。その頃、イギリスとの國際情勢が思はしくなかつたので、政府當局の人たちも大使館の人たちも心配してくれたが、また、私自身も最惡の場合の覺悟はしてゐなくもなかつたが、事實は、意外にも、むしろ反對に、頗る氣持よく迎へられ、リーヅ大學では、エドワード・ヂェイムズ教授夫妻が私たち夫妻のために講義期間中自分たちの家庭を提供してくれたり、ケインブリヂではサー・アーサー・クィラクーチ教授が、近年さういつたことは全くなかつたのださうだが
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング