処女の木とアブ・サルガ
野上豊一郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)処女《おとめ》の木

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なかばうつろ[#「うつろ」に傍点]に

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔AE&gupt〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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    一

 カイロに着いた翌日、町の北東五マイルほどの郊外にある昔のヘリオポリス(日の町)の遺跡にウセルトセン一世の建てたエジプト現存第一の大オベリスクを見に行った。そのついでに車を廻して、そこからあまり遠くない所にある「処女《おとめ》の木」を見物した。
 その辺はマタリアと呼ばれる部落で、五千年前のヘリオポリスの殷賑などはいくら想像を働かしても実感することのできないほどに今は荒れさびれている。泥ででっち上げた低い家の飛び飛びに並んだほこりっぽい道路の片側に、牧場で見るような簡単な板を打ちつけた片折戸が締まっていて、案内者のサイドが車から下りてベルを鳴らすと、遠い奥の方からヌビア人らしい黒ん坊の子供が跣足で駈けて来て、その戸をあけた。入って行くと、奥は廃園といったような感じのする広場になって、シャリ・エル・ミサラと呼ばれ、三角州《デルタ》地方では最も古い庭園の一つといわれている。隅に小さい番人の小屋があり、其処から黒ん坊の小僧は飛び出して来たのだった。
 庭園のまん中ほどに一株の大きなシカモアの木が白っぽく朽ちた二股の幹を七八尺の高さに折れ残して枯れ立っている。それが謂わゆる「処女の木」で、処女マリアが赤ん坊のキリストを抱いて、ヨセフに伴われ、イスラエルの地から王ヘロデの迫害を遁れてエジプトに避難した時、しばらくその木の下で暮していたと伝えられている。幹はさながら古材のようで、皮などはなく、つるつるしていて、なかばうつろ[#「うつろ」に傍点]になってるが、それがシカモアだとわかるのは、その幹から太い逞ましい枝が三本斜めに突出して、それも白っぽく枯れてるが、そのうち二本の端に不思議にも生き生きした小枝が伸びて青葉を付けている。その葉を見ると、エジプトの到る所で出逢うシカモアだということが、すぐ知れる。シカモア Sycamore を『聖書』には桑樹と訳してあるが、葉だけは日本の桑に似ているけれども桑ではない。いちじく[#「いちじく」に傍点]の種類で、学名は Ficus Sycamorus となっている。(イギリスでシカモアといわれるのは種類がちがい、楓に似てるように見た。)
「処女の木」のシカモアは枯れ朽ちてるのに、尖《さき》に葉が茂ってるのがおかしいと思ったら、バッジ博士の The Nile(第十二版、一九一二年)には「処女の木」が一九〇六年七月十四日に老齢のため朽ち折れたのを惜んでいる辞句があり、一九一四年の Baedeker には一本の若枝が芽を吹いたので大事に柵を繞したという記事があるので、一二年と一四年の間に此のシカモアの木は復活したものと思われる。謡曲の文句ではないが、老木《おいき》も若みどりといったような感じである。『ベデカ』に拠ると、此の老木は一六七二年以後に植え替えられた何代目かの「処女の木」らしい。小枝のそこここに細いきれ[#「きれ」に傍点]が結びつけてあるのを日本流に解釈して、いずれ黒ん坊の若者や娘たちが縁結びの願いごとでもする習慣があるのだろうと思ったら、サイドの説明では、母親が子供の病気平癒の願《がん》がけをするのだという。聖母とキリストを庇った聖木だから今も霊験あらたかだと信じているらしい。
 その話で私はウセルトセン一世のオベリスクの下で包囲されたきたない年若な親たちの群を思い出した。どれを見ても皆アラビア人らしく、オベリスクを見てしまって私たちが車に乗ると、それまでは筋骨逞ましいサイドが赤いタルブシュ(トルコ帽)をかぶって鞭を持って傍に付いていたので寄りつかなかった彼等が、用心棒も一所に車に入り車掌台の隣りに掛けたのを見ると、忽ちどっとたかって来て、バクシシュ、バクシシュと叫びながら手をさし出した。マリアのように、片手で赤ん坊を胸に抱えながら、中には十三四の小娘のようなのもあった。あれもお母さんかと聞いたら、そうだといってサイドは苦笑していた。皆きたないなり[#「なり」に傍点]をして、跣足だった。子供たちも交っていたが、子供たちと母親たちの区別は見わけがつかないほどだった。あの憐むべき母親たちが此の木の枝にきれっぱし[#「きれっぱし」に傍点]を結びつけて祈るところを想像すると、人間の迷信は何千年もそういった習慣から脱しきれないものと見えて、ひとごとではなく思われた。
「処女の木」の近くに一つの古井戸があって、水が湧いていた。マリアがその水を汲んで赤ん坊のキリストのむつぎ[#「むつぎ」に傍点]を洗った所だというので神聖視され、付近の他の井戸の水はすべて飲めないのに、その井戸の水だけは飲めるそうで、それも聖母の余徳であろう。尤も回教徒のアラビア人がそれをありがたがるのはどういう解釈だか聞き洩らしたが。サイドはおいしそうにそれを飲んだ。私も勧められたけれども、クリスチャンでも回教徒でもない私は恵みの分け前にあやかる特権を辞退した。
 しかし、エジプトの古い伝説に拠ると、その井戸は大昔からアイン・アシュ・シェムス(日の泉)と呼ばれ、ヘリオポリス地方の主神ラー(日の神)が初めて此の世界に現れた時、まず此の泉の水で顔を洗ったといわれている。五千年前にはそういった言い伝えで神聖視されていたのが、その後エジプトの宗教は衰え、千九百四十一年前にマリアがイスラエルから逃げて来て赤ん坊のむつぎ[#「むつぎ」に傍点]を洗濯をしたので、そのために今は有名になっている。

    二

 千九百四十一年前と限定したのは、キリストの生れたのは紀元元年ではなく紀元前四年が正しいと今日では年代史的に訂正されて居り、生れると間もなくベトレヘムからつれ出され、シュリアを南西へ下り、イスマイリアを通ってエジプトに入ったのは、翌年の春早早であったろうと推定されるからである。
 その頃ユダヤの郷国では王ヘロデ(ヘロデス大王)が支配していたが、キリストの生れたのはヘロデの晩年だった。東方の博士たちが星を見て「ユダヤびとの王」として生れた赤ん坊を拝もうと思い、エルサレムまで行くと、それを聞いて王ヘロデはひどく心を傷《いた》め、その赤ん坊に嫉妬を感じて殺そうと企て、博士たちに子供の在り家《か》がわかったらすぐ立ち戻って知らせろと命じた。博士たちは尚も星の動きを慕ってベトレヘムへ行き、牛小屋の隅にキリストをマリアとヨセフと共に発見して礼拝し、王ヘロデには復命しないで、道を変えて東方へ去った。天使がヨセフに現れ、ヘロデの害意を告げ、赤ん坊をつれて速かにエジプトへ行けと勧めた。王ヘロデは博士たちに裏切られたことをさとり、大いに憤慨して、ベトレヘムとその付近なる二歳以下のすべての男の子を殺せと命じた。恐るべき嬰児虐殺が行われた時、キリストは母と父に護られてすでに此のシカモアの木蔭にすやすやと睡っていた。
 それは『マタイ伝』に出ているが、『童蒙福音書』(第八章九ー一三)にはこう記されてある。
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「かくてシカモアの木の下《もと》に行きぬ。今マタリアと呼ばる。マタリアにて主イエス一つの井戸を湧き出ださしめ、それにて聖マリア彼の衣を洗えり、その国に一つの香液《パルサム》生じたり。主イエスより其処に流れ落ちたる汗の滴より生じたるなり。それよりメムフィスに行き、パロ(エジプト王)に逢い、エジプトに三年住まいたり。」
[#ここで字下げ終わり]
 しかし、此の記事は信用ができない。聖家族がマタリアからメムフィスへ行ったというのは有り得べきことだと思うが、メムフィスとてもその頃はヘリオポリス(マタリア)同様すでに荒廃して王都ではなかった。その頃の首府はアレクサンドリアで、しかもパロはとっくに存在しなくなって居り、エジプトはローマ帝国の領土になっていたのだから、パロに逢ったということもおかしければ、エジプトに三年住まっていたということもどうかと思われる。少くとも『マタイ伝』の記事とは矛盾する。
『マタイ伝』に拠ると、初めて天使がベトレヘムでヨセフに現れて、イスラエルの国を去れと警告した時、またわれ汝に示さん時までエジプトに留まれと約束した。やがてベトレヘムの幼児虐殺の後で王ヘロデが死ぬと、再び天使はヨセフに現れ、起ちて幼児とその母を携え、イスラエルの地に行けと命じ、幼児の生命を求むる者はすでに死にたり、といった。それで、ヨセフはヤーヴェの命に従い、マリアとキリストをつれて、イスラエルへ帰ると、恐るべき王ヘロデは死んだけれども第二の恐るべきアケラオ(アケラオス)が支配していたので、エルサレムに入ることを避け、ガリラヤへ遁れてナザレに住むことになった。
 ヘロデの死んだのは紀元前四年か三年で、幼児虐殺の後あまり多く日数がたっていなかった。その間にヘロデは先妻の産んだ長男と二男を殺し、彼の弟をも殺したが、その死刑命令は王自身の死の床から発せられ、やがて後妻の産んだ息子のアンティパスがヘロデ二世としてユダヤの王となった。『マタイ伝』にアケラオの名を出してあるのは、アンティパスがまだ幼少だったので、その頃はアケラオが政治をしていたことを意味するのであろう。それはともかく、正直な天使はヘロデの死後すぐ約束通りヨセフに現れなかった筈はないから、そうして寝ていたヨセフはすぐ起ち上って帰国の旅に出たとなってるから、聖家族の人たちがエジプトに三年間住まっていたということは考えられない。つまり、聖家族は紀元前四年の暮にベトレヘムを出て、翌三年の春早くエジプトに着き、その年のうちには再び国境を越えてイスラエルの国に戻っていたと見るべきであろう。

    三

 キリストを抱いたマリアのことを思うとヘロデを思い出し、ヘロデのことを思うと帝国建設前後のローマを思い出すのは、私だけの癖だろうか。実際、その頃の地中海沿岸は、ローマの世界だった。ケーサルの斃れた後、ローマの勢力はアントニウスとオクタヴィアヌスに二分されていたが、アクティウムの海戦(前三〇年)後は勢力が急に一方的となり、三年の後には後者は自ら第一人者《プリンケプス》と称して統帥権を掌握し、次第に帝政の基礎を固め、名をアウグストゥスと改め、キリストの生れた頃はすでに事実上ローマ皇帝であった。
 一方、ヘロデは初めからローマに依存してユダヤを支配していた。ケーサルの暗殺者カシウスが地中海東部を支配していた時は彼に阿付していたが、カシウスが倒されて後はひたすらアントニウスの歓心を求め、アントニウスとオクタヴィアヌスの双方に取り入ってユダヤ王の名義を貰い出し、前三七年(三十七歳)にはエルサレムを手に入れ、以後三十四年間、都城を改修して其処に住んでいた。勢力絶倫で奸智に長《た》け、天下の形勢の推移にも見通しが利き、エジプトにもローマにも秋波を送っていたが、ローマが世界を支配するだろうことをば逸早く予感していた。しかし、アントニウスとオクタヴィアヌスを両天秤にかけて操縦することに於いては多少見当を誤り、アントニウスの方に偏しすぎたため、アクティウムの決戦後は一時不安を感じていた。けれども巧みにオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の前で尻尾を振り、終に絶大の信頼を得ることに成功し、その関係を利用してアジアの地盤を鞏固にした。
 彼は、ローマ人がギリシア的な生活様式にあこがれたように、ローマ的な生活様式にあこがれ、自分もしばしばローマへ行き、二人の上の息子をば長くローマに留学させていた。都市を改造し、大建築を起したのもローマに傚ってであった。例えば、サマリアを改造してセバステと改名したり、ストラトの塔と呼ばれる海角に大規模の築港をしたり、改造したエルサレムの町に大劇場を建てたり、そ
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