れに隣接して円形競技場を設けたり、十年の日子を要する殿堂改築に着手したり、その他、ユダヤの各地に城塞を築いたりして、それがためには苛斂誅求をやって人民の膏血を絞ることを厭わなかった。それでも人民は彼の気ちがいじみた性格に恐れをなしてあらわに反抗することを敢てしなかった。やがてキリストが出て「神の国は近づけり」と説くのにふさわしい情勢をヘロデは生涯を費して作り上げていたようなものだった。
ヘロデにとって気の毒なことは、彼は生涯の初めから終まで家庭的に苦悩しなければならなかった。性格の残忍刻薄が主因だったから自業自得といえばそれまでだが、もっと根づよい因果的な、謂わばネメシスの咀いに追及されているような形だった。一族を殺し味方を屠った数は数えきれないほどだった。最も顕著な事件は第一の夫人を殺した事と二人の息子を殺した事だった。第一夫人はマリアムネと呼んでユダヤの王族アスモネウス家の王女(ヘロデ自身はエドミ族)で、美人としてはエジプトのクレオパトラには及ばなかったとしても、しかしクレオパトラの前に出てもひどく見劣りのすることのないほどの容色の持主だった。彼女にはアリストブルスと呼ぶ弟があり、美貌の少年で、殿堂の祭司で、何よりも血統が人民の信頼を集め、嫉妬ぶかいヘロデにとっては目の上の瘤だったが、人民の思わくを顧慮して容易に手をつけることをしなかった。そこヘエジプトの女王クレオパトラが、ペルシア遠征のアントニウスをエウフラテス河まで見送っての帰りに、ダマスクスから道をユダヤに取ってエルサレムに訪ねて来た。アリストブルスの母アレクサンドラは衷情を披瀝して息子の身の安全を相談した。クレオパトラは機会があったらユダヤをもエジプトに併合したいという下心があったし、ヘロデに対してはもともと好感を持ってなかったので、その相談に乗り出し、アレクサンドラに息子をつれてエジプトへ来るようにと勧めた。事は秘密に計画されたけれども、船に乗る直前にヘロデの部下の者に見破られて、遮られた。ヘロデはクレオパトラを暗殺しようとさえ企てたけれども、アントニウスの復讐を恐れて中止した。しかしアリストブルスを巧みに欺いて庭苑内の池の中で溺死させた。母のアレクサンドラは憤慨して、手紙でクレオパトラに訴えた。クレオパトラはアントニウスに使を出して彼を動かした。アントニウスはラオディケア(トルコ)にいたが、ヘロデを呼び寄せて詰問した。その時ヘロデは王妃マリアムネをエルサレムに残して出発し、腹心の部下の者に命じて、もし自分の一身上に大事があったら、逸早く王妃を殺せと言いふくめた。それを知ってマリアムネは、ヘロデが帰って来ると、明らさまにヘロデを責めて彼の愛を否定した。ヘロデはマリアムネを殺した。
悲劇は悲劇を産んだ。ヘロデの二人の息子(マリアムネの産んだアンティパテルとその弟)は、ヘロデが次第に老齢に入ったので、ローマから呼び返された。彼等は母系の血統のために人民に人気があった。けれども長くローマの生活に馴れて、ユダヤ風ではなかった。それが却って父の自慢でもあった。けれどもヘロデの弟妹はアスモネウス家の血を引いた王子の勢力を喜ばないで、ヘロデに中傷した。ヘロデは自分の息子を疑い出した。ヘロデには多くの妻妾があった。マリアムネの死後はサマリアのマルタケが閨房の勢力を独占していた。エルサレムの王宮は陰謀と策動の巣窟となり、血で血を洗うような事件が続出した。その陰惨な空気の中でヘロデは晩年を送らねばならなくなった。マリアムネの産んだ二人の息子は王位簒奪の謀計を実行しようとしていると知らされ、ヘロデは遂に二人の息子を絞刑に処したが、その後から謀計者は却ってヘロデの弟であったことがわかり、彼をも絞刑に処した。
そういった事件の瀕出で、さらでだに狂暴なヘロデはますます狂暴になった。そこへ東方の博士たちが救世主出現の星の跡を追うてエルサレムを通り過ぎたので、赤ん坊のキリストを殺そうと考え、その所在がわからなくなったので、ベトレヘムの嬰児鏖殺を行ったことは前述の如くである。
四
二代目のヘロデは、マルタケを母としたアンティパスで、キリストの同時代人だった。『新約』にヘロデの名で出ているのは、此のヘロデス・アンティパスのことで、キリストに「狐」と呼ばれたヘロデである。(『ルカ伝』一三・三二)
此のヘロデについての最も著名な事件は、洗礼者ヨハネの首を斬ったことと、裁けといわれたキリストをピラトに送り返したことである。
ヨハネとキリストは母同士のつながりから親戚の間柄で、年はヨハネの方が半歳ほど上だった。長くユダヤの曠野をさまよい、殊にヨルダンの流域で説教して「神の国は近づけり」と叫び、予言者エリヤの再来といわれ、民衆に多大の信頼を受け、ヘロデさえ彼には一種の畏敬を感じていたといわれる。キリストが彼に洗礼を受けた時、二人は三十歳前後だったが、ヨハネはキリストを自分よりも遙かに偉大な者と知っていた。やがてヨハネはヘロデに殺された。それはなぜかというと、ヨハネがヘロデの不倫の結婚を非難したからだった。ヘロデは初めアラビアの王女を妻としていたが、弟のフィリポの妻ヘロデアに懸想し、フィリポのローマヘ行っている留守中にヘロデアと同棲した。(同時に前の王妃はアラビアに逃げ去った)。それをヨハネはあからさまに厳しく批判したので、ヘロデアはヨハネを殺したく思った。けれども彼女にはどうすることもできなかった。ヘロデにとっては、予言者として人民に尊敬されてるヨハネであったから、捕えて土牢に入れたけれども殺すつもりはなかった。ところが、ヘロデの誕生日の祝宴にヘロデアの娘サロメが踊って、賓客たちをいたく喜ばしたので、ヘロデは満足のあまり何でも所望のものをその場で与えようと約束した。サロメは母に相談した。母はヨハネの首を所望せよといった。サロメはそれを所望した。ヘロデは躊躇したけれども、遂に獄卒に命じた。獄卒は洗礼者の首を銀の盆に載せて持って来た。そのことはマタイもマコも記しているが、近代人はオスカー・ワイルドの劇で最もよく知っている。
それはヘロデの心によほど忘られぬ印象を与えたと見え、間もなくイエス・キリストの名が広まった時、彼は洗礼者ヨハネが蘇えったのだろうといった。最後にキリストがエルサレムに来て、パリサイ人の奸計に陥り、捕えられてローマの太守ピラトの前に引かれると、ピラトは彼をヘロデの手に渡した。ヘロデは初めてキリストを見たが、評判にも似ず、魔法も奇蹟も演じないのでつまらなくなり、彼をばピラトに返した。ピラトもヘロデもキリストの罪を認めなかったけれども、キリストは十字架の上に磔りつけられたことは皆人の知る通りである。その時の社会情勢をキリストに最も縁の遠いピラトとその友人の側から描いた短編がアナトール・フランスにある。
そんなことを思い出しながら見て歩いていると、キリストもマリアも何となく親しみが感じられるのは、ヨーロッパに於いての如く、壮厳にきらびやかに飾り立てられた寺の中や美しく塗り立てられた絵の前でなしに、エジプトでは、キリストが話しかけたであろうと同じようによごれた着物や跣足の間に交って、その影像を描いて見ることができるからだろうと思われた。
五
カイロでは今一つマリアとキリストの遺跡を[#「遺跡を」は底本では「遺跡をを」]見た。
ニルの上流地方から帰って来てからだったが、カイロの町を南へはずれ、ローダの島を右に見て、ニルを遡りつつ、シャリ・エル・カスルの通をまっすぐに行くと、旧カイロと呼ばれる区域に達する。昔バビロンと呼ばれた都の跡で、クリスチャンの居住区域である。今も住民の多くはコプトだそうだが、町角に車を止めて、カスル・エム・シャムとかいった裏町の、アラビア風の白壁の、唐草模様の木格子の嵌まった[#「嵌まった」は底本では「嵌まつた」]家々の並んだ狭い小路を曲りくねって行くと、アブ・サルガ(聖セルギウス)の教会と呼ばれる小さい古い建物を見出す。モハメド教徒侵入以前の教会として伝えられているけれども、それは地下塋窟《クリプト》についてのみ真実で、上の部分は多分九世紀の中頃に改造されたものだろうという説が正しいと思う。
様式はバジリカ風で、エジプト・ビザンティウム式教会の原型的なものである。建物は長方形で、西の隅の入口から入るとすぐ前房で、中央に方形の洗盤があり、それに続いて内陣があり、内陣は本来は男の会衆の席で、女の会衆の席は前房から右へ折れた廻廊であるべきだが、今は本陣を二つに仕切り、右が男の席、左が女の席となっている。本陣の両側は型の如く側堂で、本陣の先には一段高くなって内陣(唱歌席)があり、その先の突きあたりの中央にはヘイカル(聖所)と呼ばれる半円形の壁龕になった祭壇があり、その左右に礼拝堂が一つずつある。
入って一番に目を惹くものは、本陣の周囲に立つ十二本の大理石(内一本だけは花崗岩)の円柱と、祭壇と礼拝堂の前に置かれた木製の仕切屏風で、その上には『聖書』からの二三の事件が巧みに浮彫で描かれてあった。
クリプトには内陣の片隅から石の階段を踏んで下りるようになっている。その階段以下が此の建物の最古の部分で、イスラエルの国から逃げて来たマリアが赤ん坊のキリストを抱いて一個月間潜んでいたと伝えられる所はその下にあるというので、私たちは下りて行こうとしたが、石段を下りきらないうちに、水が一ぱいに湛えていて立ち止まらねばならなかった。一体これは何だと聞くと、ニルの水が氾濫期になって侵入したのだとサイドは説明した。石段の中途から薄暗くなってよく見えなかったので、初めはそれが水だとは気がつかず、私は先に立って下りていると、後からサイドに腕をつかまえられて立ち止まったのだが、危うく水の中に片足を突っ込むところだった。こごんで鉛筆で深さを捜ろうとしたら、鉛筆は皆隠れ、指の先がやに[#「やに」に傍点]色に染まった。その濁水のしみ[#「しみ」に傍点]はエジプトの土地を離れるまで消えなかった。数日の後、アレクサンドリアからイタリアの汽船でロードスへ行く時も、まだそのしみ[#「しみ」に傍点]が気になって、キャビンの洗面所で何度も石鹸で指を洗ったほどだった。
そこで最後の石段の上にこごんだまま奥の方をすかして見ると、広さは三間半に二間半もあろうか、割合に小さいクリプトで、丁度上の内陣の真下にあたり、大きな円柱が幾つも立っていて、下の方は水に浸ってるのが、水がどんよりと暗く湛えて泥地の如く見えるので、円柱がいやに短いような印象を与えた。その円柱は本陣と側堂の仕切になっていて、つきあたりの正面が祭壇だが、それは初期の地下塋窟の見本ともいうべき壁龕になってるらしく、其処にマリアと赤ん坊のキリストは起臥していた。というよりは、その片隅に聖母子の起臥していた中庭を後でクリプトの形に改修したのであろう。カイロの町の古い部分の市場へ行って見ると今も見られるが、カーンといって内庭を持った二階建の倉庫風の宿屋がある。昔はその内庭に夜になると家畜を追い込んだが、宿屋に泊れない人間はその片隅に寝せて貰う習慣があった。エジプトからパレスティナへかけてそうだった。マリアとヨセフがベトレヘムの牛小屋に泊っていたというのもそういう場所であっただろうし、エジプトへ来て、バビロンのカーンの片隅に夜露を避けていたというのもそういう事情からであっただろう。そのカーンの跡が、キリストが尊敬されるようになってから、それをクリプトに造り変えて、その上に寺を建てたものと思われる。それはコプトの信仰の盛んになった六世紀頃のことだと推定されている。
コプト Copt はアイギュプティオス Aigyptios またはエギュプト 〔AE&gupt〕(即ちエジプト Egypt)の転訛で、エジプト土着のキリスト教徒のことを今はそう呼んでいるが、彼等はモハメド教徒侵入前から既にエジプト各地に教会を建てて熱心な信仰を持っていた。今日でもコプトの数は七十万以上あるといわれ、中には福音書を全部暗記してる者さえあるそうだ
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