て寝ていたヨセフはすぐ起ち上って帰国の旅に出たとなってるから、聖家族の人たちがエジプトに三年間住まっていたということは考えられない。つまり、聖家族は紀元前四年の暮にベトレヘムを出て、翌三年の春早くエジプトに着き、その年のうちには再び国境を越えてイスラエルの国に戻っていたと見るべきであろう。

    三

 キリストを抱いたマリアのことを思うとヘロデを思い出し、ヘロデのことを思うと帝国建設前後のローマを思い出すのは、私だけの癖だろうか。実際、その頃の地中海沿岸は、ローマの世界だった。ケーサルの斃れた後、ローマの勢力はアントニウスとオクタヴィアヌスに二分されていたが、アクティウムの海戦(前三〇年)後は勢力が急に一方的となり、三年の後には後者は自ら第一人者《プリンケプス》と称して統帥権を掌握し、次第に帝政の基礎を固め、名をアウグストゥスと改め、キリストの生れた頃はすでに事実上ローマ皇帝であった。
 一方、ヘロデは初めからローマに依存してユダヤを支配していた。ケーサルの暗殺者カシウスが地中海東部を支配していた時は彼に阿付していたが、カシウスが倒されて後はひたすらアントニウスの歓心を求め、アントニウスとオクタヴィアヌスの双方に取り入ってユダヤ王の名義を貰い出し、前三七年(三十七歳)にはエルサレムを手に入れ、以後三十四年間、都城を改修して其処に住んでいた。勢力絶倫で奸智に長《た》け、天下の形勢の推移にも見通しが利き、エジプトにもローマにも秋波を送っていたが、ローマが世界を支配するだろうことをば逸早く予感していた。しかし、アントニウスとオクタヴィアヌスを両天秤にかけて操縦することに於いては多少見当を誤り、アントニウスの方に偏しすぎたため、アクティウムの決戦後は一時不安を感じていた。けれども巧みにオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の前で尻尾を振り、終に絶大の信頼を得ることに成功し、その関係を利用してアジアの地盤を鞏固にした。
 彼は、ローマ人がギリシア的な生活様式にあこがれたように、ローマ的な生活様式にあこがれ、自分もしばしばローマへ行き、二人の上の息子をば長くローマに留学させていた。都市を改造し、大建築を起したのもローマに傚ってであった。例えば、サマリアを改造してセバステと改名したり、ストラトの塔と呼ばれる海角に大規模の築港をしたり、改造したエルサレムの町に大劇場を建てたり、それに隣接して円形競技場を設けたり、十年の日子を要する殿堂改築に着手したり、その他、ユダヤの各地に城塞を築いたりして、それがためには苛斂誅求をやって人民の膏血を絞ることを厭わなかった。それでも人民は彼の気ちがいじみた性格に恐れをなしてあらわに反抗することを敢てしなかった。やがてキリストが出て「神の国は近づけり」と説くのにふさわしい情勢をヘロデは生涯を費して作り上げていたようなものだった。
 ヘロデにとって気の毒なことは、彼は生涯の初めから終まで家庭的に苦悩しなければならなかった。性格の残忍刻薄が主因だったから自業自得といえばそれまでだが、もっと根づよい因果的な、謂わばネメシスの咀いに追及されているような形だった。一族を殺し味方を屠った数は数えきれないほどだった。最も顕著な事件は第一の夫人を殺した事と二人の息子を殺した事だった。第一夫人はマリアムネと呼んでユダヤの王族アスモネウス家の王女(ヘロデ自身はエドミ族)で、美人としてはエジプトのクレオパトラには及ばなかったとしても、しかしクレオパトラの前に出てもひどく見劣りのすることのないほどの容色の持主だった。彼女にはアリストブルスと呼ぶ弟があり、美貌の少年で、殿堂の祭司で、何よりも血統が人民の信頼を集め、嫉妬ぶかいヘロデにとっては目の上の瘤だったが、人民の思わくを顧慮して容易に手をつけることをしなかった。そこヘエジプトの女王クレオパトラが、ペルシア遠征のアントニウスをエウフラテス河まで見送っての帰りに、ダマスクスから道をユダヤに取ってエルサレムに訪ねて来た。アリストブルスの母アレクサンドラは衷情を披瀝して息子の身の安全を相談した。クレオパトラは機会があったらユダヤをもエジプトに併合したいという下心があったし、ヘロデに対してはもともと好感を持ってなかったので、その相談に乗り出し、アレクサンドラに息子をつれてエジプトへ来るようにと勧めた。事は秘密に計画されたけれども、船に乗る直前にヘロデの部下の者に見破られて、遮られた。ヘロデはクレオパトラを暗殺しようとさえ企てたけれども、アントニウスの復讐を恐れて中止した。しかしアリストブルスを巧みに欺いて庭苑内の池の中で溺死させた。母のアレクサンドラは憤慨して、手紙でクレオパトラに訴えた。クレオパトラはアントニウスに使を出して彼を動かした。アントニウスはラオディケア(トルコ)にいたが、ヘロデ
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング