を呼び寄せて詰問した。その時ヘロデは王妃マリアムネをエルサレムに残して出発し、腹心の部下の者に命じて、もし自分の一身上に大事があったら、逸早く王妃を殺せと言いふくめた。それを知ってマリアムネは、ヘロデが帰って来ると、明らさまにヘロデを責めて彼の愛を否定した。ヘロデはマリアムネを殺した。
 悲劇は悲劇を産んだ。ヘロデの二人の息子(マリアムネの産んだアンティパテルとその弟)は、ヘロデが次第に老齢に入ったので、ローマから呼び返された。彼等は母系の血統のために人民に人気があった。けれども長くローマの生活に馴れて、ユダヤ風ではなかった。それが却って父の自慢でもあった。けれどもヘロデの弟妹はアスモネウス家の血を引いた王子の勢力を喜ばないで、ヘロデに中傷した。ヘロデは自分の息子を疑い出した。ヘロデには多くの妻妾があった。マリアムネの死後はサマリアのマルタケが閨房の勢力を独占していた。エルサレムの王宮は陰謀と策動の巣窟となり、血で血を洗うような事件が続出した。その陰惨な空気の中でヘロデは晩年を送らねばならなくなった。マリアムネの産んだ二人の息子は王位簒奪の謀計を実行しようとしていると知らされ、ヘロデは遂に二人の息子を絞刑に処したが、その後から謀計者は却ってヘロデの弟であったことがわかり、彼をも絞刑に処した。
 そういった事件の瀕出で、さらでだに狂暴なヘロデはますます狂暴になった。そこへ東方の博士たちが救世主出現の星の跡を追うてエルサレムを通り過ぎたので、赤ん坊のキリストを殺そうと考え、その所在がわからなくなったので、ベトレヘムの嬰児鏖殺を行ったことは前述の如くである。

    四

 二代目のヘロデは、マルタケを母としたアンティパスで、キリストの同時代人だった。『新約』にヘロデの名で出ているのは、此のヘロデス・アンティパスのことで、キリストに「狐」と呼ばれたヘロデである。(『ルカ伝』一三・三二)
 此のヘロデについての最も著名な事件は、洗礼者ヨハネの首を斬ったことと、裁けといわれたキリストをピラトに送り返したことである。
 ヨハネとキリストは母同士のつながりから親戚の間柄で、年はヨハネの方が半歳ほど上だった。長くユダヤの曠野をさまよい、殊にヨルダンの流域で説教して「神の国は近づけり」と叫び、予言者エリヤの再来といわれ、民衆に多大の信頼を受け、ヘロデさえ彼には一種の畏敬を感じていたといわれる。キリストが彼に洗礼を受けた時、二人は三十歳前後だったが、ヨハネはキリストを自分よりも遙かに偉大な者と知っていた。やがてヨハネはヘロデに殺された。それはなぜかというと、ヨハネがヘロデの不倫の結婚を非難したからだった。ヘロデは初めアラビアの王女を妻としていたが、弟のフィリポの妻ヘロデアに懸想し、フィリポのローマヘ行っている留守中にヘロデアと同棲した。(同時に前の王妃はアラビアに逃げ去った)。それをヨハネはあからさまに厳しく批判したので、ヘロデアはヨハネを殺したく思った。けれども彼女にはどうすることもできなかった。ヘロデにとっては、予言者として人民に尊敬されてるヨハネであったから、捕えて土牢に入れたけれども殺すつもりはなかった。ところが、ヘロデの誕生日の祝宴にヘロデアの娘サロメが踊って、賓客たちをいたく喜ばしたので、ヘロデは満足のあまり何でも所望のものをその場で与えようと約束した。サロメは母に相談した。母はヨハネの首を所望せよといった。サロメはそれを所望した。ヘロデは躊躇したけれども、遂に獄卒に命じた。獄卒は洗礼者の首を銀の盆に載せて持って来た。そのことはマタイもマコも記しているが、近代人はオスカー・ワイルドの劇で最もよく知っている。
 それはヘロデの心によほど忘られぬ印象を与えたと見え、間もなくイエス・キリストの名が広まった時、彼は洗礼者ヨハネが蘇えったのだろうといった。最後にキリストがエルサレムに来て、パリサイ人の奸計に陥り、捕えられてローマの太守ピラトの前に引かれると、ピラトは彼をヘロデの手に渡した。ヘロデは初めてキリストを見たが、評判にも似ず、魔法も奇蹟も演じないのでつまらなくなり、彼をばピラトに返した。ピラトもヘロデもキリストの罪を認めなかったけれども、キリストは十字架の上に磔りつけられたことは皆人の知る通りである。その時の社会情勢をキリストに最も縁の遠いピラトとその友人の側から描いた短編がアナトール・フランスにある。
 そんなことを思い出しながら見て歩いていると、キリストもマリアも何となく親しみが感じられるのは、ヨーロッパに於いての如く、壮厳にきらびやかに飾り立てられた寺の中や美しく塗り立てられた絵の前でなしに、エジプトでは、キリストが話しかけたであろうと同じようによごれた着物や跣足の間に交って、その影像を描いて見ることができるからだろうと思われた
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング