。
五
カイロでは今一つマリアとキリストの遺跡を[#「遺跡を」は底本では「遺跡をを」]見た。
ニルの上流地方から帰って来てからだったが、カイロの町を南へはずれ、ローダの島を右に見て、ニルを遡りつつ、シャリ・エル・カスルの通をまっすぐに行くと、旧カイロと呼ばれる区域に達する。昔バビロンと呼ばれた都の跡で、クリスチャンの居住区域である。今も住民の多くはコプトだそうだが、町角に車を止めて、カスル・エム・シャムとかいった裏町の、アラビア風の白壁の、唐草模様の木格子の嵌まった[#「嵌まった」は底本では「嵌まつた」]家々の並んだ狭い小路を曲りくねって行くと、アブ・サルガ(聖セルギウス)の教会と呼ばれる小さい古い建物を見出す。モハメド教徒侵入以前の教会として伝えられているけれども、それは地下塋窟《クリプト》についてのみ真実で、上の部分は多分九世紀の中頃に改造されたものだろうという説が正しいと思う。
様式はバジリカ風で、エジプト・ビザンティウム式教会の原型的なものである。建物は長方形で、西の隅の入口から入るとすぐ前房で、中央に方形の洗盤があり、それに続いて内陣があり、内陣は本来は男の会衆の席で、女の会衆の席は前房から右へ折れた廻廊であるべきだが、今は本陣を二つに仕切り、右が男の席、左が女の席となっている。本陣の両側は型の如く側堂で、本陣の先には一段高くなって内陣(唱歌席)があり、その先の突きあたりの中央にはヘイカル(聖所)と呼ばれる半円形の壁龕になった祭壇があり、その左右に礼拝堂が一つずつある。
入って一番に目を惹くものは、本陣の周囲に立つ十二本の大理石(内一本だけは花崗岩)の円柱と、祭壇と礼拝堂の前に置かれた木製の仕切屏風で、その上には『聖書』からの二三の事件が巧みに浮彫で描かれてあった。
クリプトには内陣の片隅から石の階段を踏んで下りるようになっている。その階段以下が此の建物の最古の部分で、イスラエルの国から逃げて来たマリアが赤ん坊のキリストを抱いて一個月間潜んでいたと伝えられる所はその下にあるというので、私たちは下りて行こうとしたが、石段を下りきらないうちに、水が一ぱいに湛えていて立ち止まらねばならなかった。一体これは何だと聞くと、ニルの水が氾濫期になって侵入したのだとサイドは説明した。石段の中途から薄暗くなってよく見えなかったので、初めはそれが水だとは気がつかず、私は先に立って下りていると、後からサイドに腕をつかまえられて立ち止まったのだが、危うく水の中に片足を突っ込むところだった。こごんで鉛筆で深さを捜ろうとしたら、鉛筆は皆隠れ、指の先がやに[#「やに」に傍点]色に染まった。その濁水のしみ[#「しみ」に傍点]はエジプトの土地を離れるまで消えなかった。数日の後、アレクサンドリアからイタリアの汽船でロードスへ行く時も、まだそのしみ[#「しみ」に傍点]が気になって、キャビンの洗面所で何度も石鹸で指を洗ったほどだった。
そこで最後の石段の上にこごんだまま奥の方をすかして見ると、広さは三間半に二間半もあろうか、割合に小さいクリプトで、丁度上の内陣の真下にあたり、大きな円柱が幾つも立っていて、下の方は水に浸ってるのが、水がどんよりと暗く湛えて泥地の如く見えるので、円柱がいやに短いような印象を与えた。その円柱は本陣と側堂の仕切になっていて、つきあたりの正面が祭壇だが、それは初期の地下塋窟の見本ともいうべき壁龕になってるらしく、其処にマリアと赤ん坊のキリストは起臥していた。というよりは、その片隅に聖母子の起臥していた中庭を後でクリプトの形に改修したのであろう。カイロの町の古い部分の市場へ行って見ると今も見られるが、カーンといって内庭を持った二階建の倉庫風の宿屋がある。昔はその内庭に夜になると家畜を追い込んだが、宿屋に泊れない人間はその片隅に寝せて貰う習慣があった。エジプトからパレスティナへかけてそうだった。マリアとヨセフがベトレヘムの牛小屋に泊っていたというのもそういう場所であっただろうし、エジプトへ来て、バビロンのカーンの片隅に夜露を避けていたというのもそういう事情からであっただろう。そのカーンの跡が、キリストが尊敬されるようになってから、それをクリプトに造り変えて、その上に寺を建てたものと思われる。それはコプトの信仰の盛んになった六世紀頃のことだと推定されている。
コプト Copt はアイギュプティオス Aigyptios またはエギュプト 〔AE&gupt〕(即ちエジプト Egypt)の転訛で、エジプト土着のキリスト教徒のことを今はそう呼んでいるが、彼等はモハメド教徒侵入前から既にエジプト各地に教会を建てて熱心な信仰を持っていた。今日でもコプトの数は七十万以上あるといわれ、中には福音書を全部暗記してる者さえあるそうだ
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