た。
「処女の木」の近くに一つの古井戸があって、水が湧いていた。マリアがその水を汲んで赤ん坊のキリストのむつぎ[#「むつぎ」に傍点]を洗った所だというので神聖視され、付近の他の井戸の水はすべて飲めないのに、その井戸の水だけは飲めるそうで、それも聖母の余徳であろう。尤も回教徒のアラビア人がそれをありがたがるのはどういう解釈だか聞き洩らしたが。サイドはおいしそうにそれを飲んだ。私も勧められたけれども、クリスチャンでも回教徒でもない私は恵みの分け前にあやかる特権を辞退した。
 しかし、エジプトの古い伝説に拠ると、その井戸は大昔からアイン・アシュ・シェムス(日の泉)と呼ばれ、ヘリオポリス地方の主神ラー(日の神)が初めて此の世界に現れた時、まず此の泉の水で顔を洗ったといわれている。五千年前にはそういった言い伝えで神聖視されていたのが、その後エジプトの宗教は衰え、千九百四十一年前にマリアがイスラエルから逃げて来て赤ん坊のむつぎ[#「むつぎ」に傍点]を洗濯をしたので、そのために今は有名になっている。

    二

 千九百四十一年前と限定したのは、キリストの生れたのは紀元元年ではなく紀元前四年が正しいと今日では年代史的に訂正されて居り、生れると間もなくベトレヘムからつれ出され、シュリアを南西へ下り、イスマイリアを通ってエジプトに入ったのは、翌年の春早早であったろうと推定されるからである。
 その頃ユダヤの郷国では王ヘロデ(ヘロデス大王)が支配していたが、キリストの生れたのはヘロデの晩年だった。東方の博士たちが星を見て「ユダヤびとの王」として生れた赤ん坊を拝もうと思い、エルサレムまで行くと、それを聞いて王ヘロデはひどく心を傷《いた》め、その赤ん坊に嫉妬を感じて殺そうと企て、博士たちに子供の在り家《か》がわかったらすぐ立ち戻って知らせろと命じた。博士たちは尚も星の動きを慕ってベトレヘムへ行き、牛小屋の隅にキリストをマリアとヨセフと共に発見して礼拝し、王ヘロデには復命しないで、道を変えて東方へ去った。天使がヨセフに現れ、ヘロデの害意を告げ、赤ん坊をつれて速かにエジプトへ行けと勧めた。王ヘロデは博士たちに裏切られたことをさとり、大いに憤慨して、ベトレヘムとその付近なる二歳以下のすべての男の子を殺せと命じた。恐るべき嬰児虐殺が行われた時、キリストは母と父に護られてすでに此のシカモアの木蔭にすやすやと睡っていた。
 それは『マタイ伝』に出ているが、『童蒙福音書』(第八章九ー一三)にはこう記されてある。
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「かくてシカモアの木の下《もと》に行きぬ。今マタリアと呼ばる。マタリアにて主イエス一つの井戸を湧き出ださしめ、それにて聖マリア彼の衣を洗えり、その国に一つの香液《パルサム》生じたり。主イエスより其処に流れ落ちたる汗の滴より生じたるなり。それよりメムフィスに行き、パロ(エジプト王)に逢い、エジプトに三年住まいたり。」
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 しかし、此の記事は信用ができない。聖家族がマタリアからメムフィスへ行ったというのは有り得べきことだと思うが、メムフィスとてもその頃はヘリオポリス(マタリア)同様すでに荒廃して王都ではなかった。その頃の首府はアレクサンドリアで、しかもパロはとっくに存在しなくなって居り、エジプトはローマ帝国の領土になっていたのだから、パロに逢ったということもおかしければ、エジプトに三年住まっていたということもどうかと思われる。少くとも『マタイ伝』の記事とは矛盾する。
『マタイ伝』に拠ると、初めて天使がベトレヘムでヨセフに現れて、イスラエルの国を去れと警告した時、またわれ汝に示さん時までエジプトに留まれと約束した。やがてベトレヘムの幼児虐殺の後で王ヘロデが死ぬと、再び天使はヨセフに現れ、起ちて幼児とその母を携え、イスラエルの地に行けと命じ、幼児の生命を求むる者はすでに死にたり、といった。それで、ヨセフはヤーヴェの命に従い、マリアとキリストをつれて、イスラエルへ帰ると、恐るべき王ヘロデは死んだけれども第二の恐るべきアケラオ(アケラオス)が支配していたので、エルサレムに入ることを避け、ガリラヤへ遁れてナザレに住むことになった。
 ヘロデの死んだのは紀元前四年か三年で、幼児虐殺の後あまり多く日数がたっていなかった。その間にヘロデは先妻の産んだ長男と二男を殺し、彼の弟をも殺したが、その死刑命令は王自身の死の床から発せられ、やがて後妻の産んだ息子のアンティパスがヘロデ二世としてユダヤの王となった。『マタイ伝』にアケラオの名を出してあるのは、アンティパスがまだ幼少だったので、その頃はアケラオが政治をしていたことを意味するのであろう。それはともかく、正直な天使はヘロデの死後すぐ約束通りヨセフに現れなかった筈はないから、そうし
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