七重文化の都市
野上豊一郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)懼《おそ》れ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)俗称|戴冠《コロネイション》モスク

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]布《ターバン》を

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔El−Ka^hira〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

[#ここから2字下げ]
 Augescunt aliae gentes, aliae minuuntur ; inque brevi spatio mutantur saecula animantum, et quasi cursores, vitae lampada tradunt.
          ―――Lucretius[#「Lucretius」は底本では「Lucretitus」]
[#ここで字下げ終わり]

    一

 カイロの町は、東洋でもなければ西洋でもない謂わば東洋と西洋の奇妙に融合した特殊の外貌を持っていて、旅行者にはたしかに一つの大きな魅力である。殊に私どものように、印度洋の諸港を次々に見物して、紅海からスエズ地峡を抜け、地中海を横断して、西洋の境域に入ろうとする者には、カイロは地理的にも文化史的にもまず見て置くべき都市である。
 N・Y・Kの船が夕方スエズに着くと、その以前に船客の中からカイロ観光の希望者を募集してあって、幾台かの自動車に積み込み、徹宵アラビアの沙漠を横断して、翌日カイロの町と博物館とギゼのピラミッドを見物させ、船がポート・サイドに入る頃までに汽車で其処へ落ち合えるようにスケデュールを作る。これは親切な工作ではあるが、エジプト文化のすばらしい御馳走のほんの匂いだけ嗅がせるようなもので、却って充たされない食欲の誘惑となりはしないかの懼《おそ》れがある。エジプトの古代文化の偉大を知るためには、どうしてもしばらくエジプトに滞在しなければならない。そうして、ニルの沿岸をできるだけ上流へ溯らなければならない。私たちはそのつもりで計画を立てていたから、例の観光団には加入しない、ポート・サイドまでスエズ地峡を船で通った。
 ポート・サイドに着いたのは十月三十日(一九三八年)の午前八時頃だった。地峡の左側の岸を船と殆んど同時に小さい列車が町へ入って来た。カイロ見物の観光団はそれで帰って来たのだ。其処で私たち二人は、日本を出て三十日目に靖国丸にさよならをして、初めてアフリカの土を踏んだ。長い間想像していたエジプトの驚くべき文化の遺跡が今に見られると思うと、異常な亢奮を感じた。もちろん、現在のエジプトの人間の動きや風土の変化をも見たいと楽しみにしてはいたけれども。
 その日、午前は大野領事の厚意で市内と近郊をドライヴしていろんなものを見せてもらい、此の町に店を持ってる南部氏の世話で丁度カイロから来ていた通訳《ドラゴマン》サイド・マブロウグを傭うことにして、午後早目にポート・サイドを立ってカイロに向った。鉄路約一五〇マイル。

    二

 汽車はイスマイリアまでは地峡の西岸を、船で通ったと反対に南へ走り、それから西へ折れて、強烈な陽光の下に威勢よく伸びてる三角州《デルタ》の植物の濃緑の間を、ベンハという大きな駅へ出て、また南へ曲り、トゥクフとかカリウブとかいう所を過ぎた。ニルの沿岸に起伏する山脈が遠く姿を現わすのはその辺からで、行くに随って右手にはギゼのピラミッドが三つ並んで小さく見え出し、その先にはリビュアの沙漠が大洋の如く連り、左手にはアラビアの沙漠の裾が少しばかりのぞいて、手前にモカタムの岩山が横たわり、その端に聳えてるサラディンの城が目を見張らせる。かと思うと、その下に黄塵の如く拡がっているのがカイロの町であった。傾いた太陽の反射でそんな錯覚を起したのだろうが、よく見ると、灰黄色・淡褐色・白色の石塊を撒き散らしたように街衢が交錯して、その間に回教伽藍《モスク》の円屋根《キューポラ》と尖塔《ミナレット》のおびただしい聚落がある。サイドに聞くと、カイロにはモスクが大小四百ばかりあるそうだ。カイロが回教都市だということは知っていたけれども、そんな盛んな回教的第一印象を受けようとは思わなかった[#「思わなかった」は底本では「思わなった」]。それは北緯三十度の、十月尽とはいいながら、まるで日本の夏の盛りの如き灼熱の日光の下に、もやもやと蒸し返された夕靄の底から、無数の石筍の簇生を発見したような驚きであった。
 そうやって初めてカイロを見た時、私は昔の侵略者たちが此の辺からそれを俯瞰して勇躍した心持を想像した。実際、カイロほど、しばしば外国人に侵略された都市はあまりないだろう。もしエジプトはエジプト人のエジプトでなければならぬとするならば、今のエジプトは侵略されたままのエジプトであり、カイロは侵略者の都市だから、エジプトは本来のエジプトでなく、カイロはまたエジプトの首都ではないということになりそうだ。そんなことを考えているうちに、列車は薄暮の渾沌《カオス》の町へと滑り込んだ。公使館の勝部書記官と、私たちと同県の阿南君が停車場に迎えてくれた。
 忙しい見物がその晩から始まった。
 まずカジノ・ベバというのに案内してもらった。他にもヨーロッパ風のカジノやオペラはいろいろあるけれども、カイロではカイロらしい土俗を見たいと思った。カジノ・ベバは浅草か本所あたりのさかり場といったような感じのする区域にあって、あまり広くもない土間にはアラビアの若者たちがぎっちり詰まっていて、綺麗な少年や少女が唄ったり踊ったりするのを囃し立てていた。
 映画館に行くと、トーキーはフランス語でしゃべっているが、説明の字幕は左端にアラビア語、右端にギリシア語が出た。フィルムはフランス物が多かった。
 市街で買物をするにはフランス語でも英語でも用事は足せるが、ギリシア語かイタリア語の方が便利のようだ。バザーへ行くと、しかし、アラビア語でないと幅がきかない。カイロのバザーは、イスタンブルのバザー、ダマスクスのバザーと並んで世界の三つのバザーといわれる。バザーは回教国に特有のもので、特長の一つは、同種の店が同一区域内に集まってることで、宝石屋の通は軒並に宝石屋ばかり、絨氈屋は絨氈屋同士で群落をなしている。バザーへはサイドをつれて車で出かけたが、街路が狭くて二台とは並べないので、たまに向からも車が来たりすると厄介だ。往来には土地の男女がぎっちり詰まって極めて緩慢な動き方をしてる。その中を驢馬に曳かせた馬車が押し通って行く。鞭が唸り、リグラク・リグラク! ウワ・ウワ! と鋭い声が叫ぶ。それに圧倒されて通行人はのそのそと道をあける。自動車は更に圧倒的であるべきだが、いずれ徐行するだろうとたかをくくってか、通行人の方ではのそのそでなしには避けない。自動車が驢馬車に出っ逢《くわ》すと、驢馬の魯鈍にはかなわないと見え、いつも自動車の方が譲歩する。
 カイロの町の旧い区域は街路が狭く、曲りくねっていて、家は二階の方が一階よりも出っ張って居り、薄暗い往来の上をうごめいている人間は、アラビア人だか、シュリア人だか、アルメニア人だか、トルコ人だか、ユダヤ人だか、コプト人だか、ベドゥイン人だか、通りすがりの旅行者には容易に見わけがつかない。モハメド・アリ通を中心とする新市街はヨーロッパ風の豪華な町並で、通行人もヨーロッパ風の服装の者が多いが、旧市街部へ行くと昔のままの家屋と風俗で、多少穢くはあるが、見た目には絵画的だ。男は白か竪縞の長い寛衣の裾を引きずり、頭に※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]布《ターバン》を捲き立てている。ターバンは七捲がきまりだが、いちいち捲かないでもよいように捲いた形に縫いつけて、すっぽりと冠れるようになっている。色は白が多いけれども、黒・紺・赤などもある。(メッカ巡礼には緑のを捲くそうだ。)もとは種族的・階級的の色別だったが、今日では必ずしもそうではなくなったということだ。女は上層の者はめったに外出しないので、われわれの目に触れるのは下層の者か、たまに中層の者である。服装は一様に黒ずくめで、バルクといって目だけ出して足の爪尖まで垂らした黒布の上から、ハバラという黒い被衣《かつぎ》を掛けている。装身具は耳環・頸環・腕環・踝環などで、上物は金銀、普通は真鍮、安物はガラスなどで出来ている。われわれの目に最も奇異に映るのは、多少身分のある女が目を出して鼻を隠してることだ。目は巴旦杏《アマンド》のように大きく見開き、長い睫毛が美しく蔭をさして、それが全身を包んだ黒紗のバルク(その下に白紗を重ねている)の間からのぞいてるのだが、目だけは出してよいけれども、その他のものは見せてはならないという掟でもあるものか、鼻の付根からヤシマクとかいう長さ二三寸の金属や象牙で出来た管を付け、その管にはきまって金環が三つ通してある。尤も、近代はそういった風習も次第に下火になったそうで、面紗なしで往来を濶歩する女も多く見られる。もちろん男もヨーロッパ風の服装をした者が多く、それでも黒房のついた赤いタルブシュ(謂わゆるトルコ帽)だけはかぶっている。われわれの親愛なサイド君も、脊広を着て、そのでっかい頭の上にはタルブシュを必ず載っけている。彼は時時短い鞭を携帯する。郊外や田舎へ行くと女子供が乞食のようにたかって来て、バクシシュ・バクシシュ! と手をさし出す。それをわれわれから防いで追っ払うためだ。

    三

 カイロで見るべきものは何といってもエジプト古代博物館である。けれども、それは貴重な記念物を方方から寄せ集めた陳列所で、昔からその場所を占めている遺跡ではない。古来の遺跡としては、カイロにはローマ時代以前の物は殆んど見られない。ローマ時代の物といっても、僅かに城砦の礎石と水道の一部ぐらいである。及び、二三の初期キリスト教寺院の遺跡もあるが、それとても当時の建造物が保存されているのではなく、昔の遺跡の上に建てられた中世の建物である。今日カイロの誇りとしてる建造物といえばすべて中世以後のモスクと墓と、及びサラディンの築いた城砦である。文化史的にいえば、カイロの誇りとするものはすべて回教的なもの[#「回教的なもの」に傍点]でありアラビア的なもの[#「アラビア的なもの」に傍点]であって、パロ的なもの・エジプト的なものではない。
 これはエジプト的なものを求めようとする旅行者をば一応失望させないでは措かない。
 けれども、カイロの発展の歴史を考えて見ると、必ずしもその範囲を今のカイロ市その物に限定しなくてもよい理由がある。というのは、カイロは昔から何度も位置を替えて移動した都市であり、その移動の径路を跡づけて行くと、初めは今のカイロの南方約十二マイルのメムフィスの土地から発展したことが発見されるから。そうしてカイロはメムフィスから発展した都市だとなると、少くとも当初は最もエジプト的に特長づけられていた筈なのに、それが却って今日では最も回教的な最もアラビア的な色彩を持つようになったというのは何故だろう?
 それを理解するためにはカイロ発展の沿革について一瞥する必要がある。
 エジプトの王祖といわれる第一王朝の最初のパロなるメネスは、南北エジプトを統一して「白壁」と呼ばれる壮大な王城を建てた。それがメムフィスであった。メムフィスはエジプト人がメン・ネフル・ミレー(ミレーの美の町)と呼んだのをギリシア語にした言葉である。ミレーは第六王朝の王ペピ一世のことで、彼はメムフィスを拡張して美しい大都市にした。その頃、メムフィスは、ヘリオポリス(カイロの北東約五マイル)と並んで三角州《デルタ》の殷賑の中心だった。ヘリオポリス(日の町)は字の如く太陽礼拝の土地だっ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング