たが、メムフィスは技術の神プタ※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]礼拝の土地で、多くの殿堂・宮殿の中でもプタ※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]の殿堂がすぐれて見事だったといわれる。しかし今は何物も遺ってない。棕櫚の木の繁茂の間からラメセス二世の二つの巨像と手頃なスフィンクスが一つ発掘されただけである。メムフィス創始の年代は半ば伝説的で正確なことはわからないけれども、メネスのエジプト統一が(ブレステッドに従って)紀元前三四〇〇年頃だったとすれば、メムフィスは今から五千三百年以前に開けた都だということになる。其処で繁栄は千年以上つづき、中期王朝時代に上流のテバイの新都が始まるまで首都だった。
テバイが首都になると共に、三角州《デルタ》の政治的勢力は衰微し、長い間メムフィスにあった活動力は次第に河を越して対岸に移り、北へ北へと動いて、一つの新しい活発な商業都市を作り出した。バビロンと呼ばれたのがそれであった。バビロンも長くつづき、降ってローマ帝国時代が繁栄の絶頂で、トラヤヌス帝は其処に城砦を築き防備を固めた。その頃は古代エジプトの王統はすでに絶え、ギリシア統治時代も過ぎ去り、ローマの支配の下に、初期キリスト教は迫害に抗しながら根強い力で弘まりつつあった。カイロを初め、エジプトの各地に、今日もコプトのキリスト教が相当に信者を持っているのはその頃からの子孫だといわれる。それ以前にマリアが赤ん坊のキリストを抱いてユダヤ王の迫害からしばらく隠れていたのも今のカイロ付近だった。実際、エジプトのバビロンといえば、その頃は昔のアジアのバビロンよりも有名だったが、今もカイロの郊外にデイル・エル・バビロンの名が残っている。
七世紀の前半にアラビア人の侵入が始まった。哈利発《ハリハ》オマルの派遣したアムル・イブン・エル・アジという猛将が攻め込んで来て、バビロンの城砦を陥れ、エル・フスタト(フォスタト)と呼ばれる都市を作った。今のカイロ市の南に隣接する謂わゆる旧カイロがその記念として残ってる区域で、エジプトの回教化はその時代から間断なく行われた。フスタトの語意についてはいろんな説があるが、ローマ人がバビロンの城砦に外濠を繞らしてフォサトゥムと呼んでいたのを、アラビア語化してフスタトとし、陣営[#「陣営」に傍点]の意味で用いたという説が妥当らしい。スタンリ・レインプールの『中世』に拠ると、その時アラビアの侵入軍は破壊したバビロン城砦の付近に陣営を張ったまま長駆してアレクサンドリアを攻略し、帰って来てその陣営《フスタト》の位置に新都市を経営した。それがエジプトに於ける最初のアラビア都市で、後のカイロは其処から発展したフスタトである。新しい宮殿やモスクが次々に建てられた。
その後トルコ人がエジプトに勢力を得て、フスタトの北部(即ち今のカイロ市内の区域)に新都市を拡げ、マスル・エル・フスタト或いは略してマスル(またミスル)と呼んだ。現在イブン・トゥルンのモスクを囲む一廓がその頃の遺跡として残っている。名称も今なおマスル・エル・アティカ(旧マスル)と呼ばれている。マスル(ミスル)はエジプトを意味するアラビア語である。
やがてトルコの勢力はまたアラビア人回教徒のために駆逐され、九世紀の末葉にはアハメド・イブン・トゥルンがマスルを拡張し、十世紀に入っては更にギリシア系の哈利発《ハリハ》ムイズの代官ガウハル将軍が宏大な城廓を築いて市街を整頓し、モスクを建て列ね、町の名をもマスル・エル・カヒラと改めた。後に回教大学に改変されたガミ・エル・アザールもその頃建てられた。エル・カヒラ 〔El−Ka^hira〕 はアラビア語のカヒル 〔Ka^hir〕(火星)の転訛で、それが都市の名称となったについてはおもしろい記録が残っている。九六九年八月五日の夜、ガウハル将軍は新都市の設計を完了して、砂原に繩張をし、占星者が天体を観測して、吉兆の瞬間に鐘を鳴らせば、最初の鋤が入れられるように用意して、土工たちは合図の鐘を待っていた。その時、一羽の大鴉が鐘の柱につないだ綱にとまったので、鐘が俄かに鳴り出し、土工たちは一斉に鋤を入れた。その瞬間、観測者の眼鏡に火星《カヒル》の上るのが見られた。それでカヒラと新都市は命名されたが、アラビア人の伝説で火星《カヒル》は不吉の兆とされていた。けれども同時に火星《カヒル》は軍神(ローマのマルス)でもあり、勝利者[#「勝利者」に傍点]を意味するということに故事つけて、カヒラは以後「勝利の町」として理解されるようになった。
近世に入ってカヒラは再びトルコ帝国の支配下に属したが、ナポレオンの指揮するフランス軍の侵入のためにそれを抛棄しなければならなくなり、その機会を利用してモハメド・アリが奮起し、またアラビア人が主体となって、古いモスクを修覆し、新しいモスクを建立し、都市に近代的設備を施して今日のカイロを造り上げた。カイロ Cairo はカヒラのヨーロッパ語化である。町の名がヨーロッパ化したと共に、都市その物の実質もヨーロッパ化したのは、フランスとイギリスの勢力がエジプトを動かすようになった結果で、それがカイロの現状である。
そんな風にして、カイロは五千五百年間に複雑な変遷を経験したのであるが、それを大まかに区劃すると七通りの変遷をしたことになる。初めは(一)古代エジプト王朝発祥の地としてメムフィスの名で長い間知られ、次に、エジプト[#「エジプト」は底本では「エジプと」]王朝没落後(二)バビロンの名でローマ帝政時代の遺跡を留め、初期キリスト教の流布に貢献するところが多かった。次に中世に入っては(三)アラビア人に依って回教化され、フスタトと呼ばれて今の旧カイロの部落を残し、更に(四)トルコ人の治下でマスルと呼ばれて今のマスル・エル・アティカの区域を残し、次に(五)ギリシア系回教徒に依って今日のカイロの基礎が置かれ、名称もカヒラと改められ、次に近世に入って(六)カヒラはカイロとなり、中世以来の回教都市はその上に国際都市的色彩を加えた。それには(七)フランスとイギリスの勢力が根強く潜在するようになったのを見遁すことはできない。つまり、七種の文化が七重に堆積して[#「七種の文化が七重に堆積して」に傍点]出来上った複雑怪奇な都市でカイロはあるということになる。
そうしてその変遷の過程を跡づけて見ると、発展の径路はニルの左岸に始まって右岸へ移り、更に南から北へと移動している。これは一つはニル流域の地理的変化に因るといわれるが、一つはまた時代に依って変った交通機関の影響もあっただろうし、更にまた新しい侵入者がいつも古い都市を灰燼にする習慣のあったことも考慮に入れなければならないだろう。
とにかく、そんな風にして都市が動き変り、古い物の上に新しい物が重ねられ、その度に文化の様式が改変され、以前からの種族の中に別の種族が割り込み、殊に近代に於いては近東地方からもヨーロッパ諸国からも多くの種族が流れ込んで、全く今日のカイロは宛然たる人種市場の如き景観を呈するようになってしまった。
四
私たちはニルの奥地へ行く前と、帰ってからと、毎日時間を都合してカイロの町と郊外を見て歩いた。諸種の博物館(エジプト古代博物館・アラビア民族博物館・等)に入ったり、モスクを訪問したり、哈利発《ハリハ》の墓やマメリュクスの墓を見たり、コプトの教会へ行ったり、サラディンの城に上ったり、ローマ時代の城壁を横ぎったり、水道の遺物を眺めたり、また大通を歩いて見たり、裏町を抜けて見たり、公園を散歩したり、動物園を訪ねたり、カフェで休んだり、夜店をひやかしたりして、あらゆる角度からカイロの(同時にエジプトの)概念を作り上げようと試みた。
その場合、いつも突きあたって解決に苦しんだ問題は、一体、カイロは(或いはエジプトは)誰の町であるか?(また誰の国であるか?)ということだった。
或る都市に幾ら外国人が多く居住していても、例えばロンドンならイギリス人の町であり、パリならフランス人の町であり、ローマならイタリア人の町であり、ベルリンならドイツ人の町であることに問題はないが、そういった意味で、カイロは何人《なにじん》の町だといったらよいのか? エジプト人の町だといえるなら簡単だが、それでは、エジプト人とはどんな国民かと考えて見ると、また厄介なことになる。
文化的にエジプト人というと古代王朝時代のエジプト人のことで、彼等の功績は古代ギリシア人の功績に優るとも劣らないほど偉大なものだったが、それはもはや今日地球上に存在しない。血族的にその子孫といわれる者は残っていても、文化史的にすでに無価値な人間である。丁度ギリシアにギリシア人と称する者は生きているけれども、古代の輝かしい文化の生産者だったギリシア人とは文化史的に殆んど何等のつながりをも持たないと同じように。その意味で今日のエジプトは、三千年乃至五千年前のすばらしい文化の遺跡となってしまい、その文化の直接の後継者がいなくなったがらんどうの空地のようなものである。その空地には古代エジプトの文化と無関係の侵略者が押し入り、断えず争ったりいじめ合ったりして来たのである。
地理的・政治的にいうと、近代エジプトの人口を構成している人種はざっと十種を数えることができる。まず古代エジプト以来の遺族と認められる者が二種ある。その一は(一)フェラヒン(農民)と呼ばれ、エジプト人の人口の大部分を占め、すべて耕作者で、主としてニルの上流地方に居住している。人種学的にはコプト人と共にハム種族の直系と認められ、謂わゆる「エジプト人」だが、政治的には全く無能である。女は結婚しても年とっても決して肥大せず、濃い睫毛が蔭深く密生して切れの長い目を際立たせるのが特長であり、男は数千年来の習慣で皆頭を剃りこくっている。色は両性とも相当に黒く、顴骨が突起して唇が相当に厚ぼったく、見たところいかにも賤民らしく、事実、今日に於いても賤民である。古来頻繁な外敵侵入にもかかわらず、彼等に比較的純血が保たれてるのは、早婚(女は十歳から十二歳で婚姻する)が主な理由だとされている。古代エジプト人の遺族の今一つは(二)コプト人で、早くからキリスト教化され、今日に至るまで世界のどの種族より『福音書』を厳正に信じ、それに依って生活してるといわれるだけあって、血の純粋もよく保たれているという。皮膚の色はあまり黒くなく、骨格も比較的きゃしゃであり、技能は精密な細工物にすぐれ、多くは都市に居住している。それもルクソルとかアスアンとかの上流地方の都市に居住する者が大部分で、カイロにもいるようだが、要するに小市民で、活力の範囲は制限されている。
以上は古来土着の「エジプト人」であるが、侵入者としては、(三)ベドゥインというのがある。元来沙漠に住むアラビア人で、その中にもいろんな種類があるが、エジプトに流れ込んでるベドゥインは概して温良で、多くは遊牧的生活者である。皮膚は青銅色に近く、頭髪は濃く、体格はやや瘠せ気味で、労働に適しそうで、そのくせ怠け者が多く、カイロ付近にもいて、ギゼ[#「ギゼ」は底本では「ギセ」]のピラミッドの胴内に入ると必ずベドゥインに案内されるが、ひどい体臭に悩まされる。次には(四)都市居住のアラビア人がある。エジプトの到る所にアラビア語が一番多く用いられてる事によってもその勢力は想見される。職業としては、上は官吏・商人・医師・技師・弁護士等から下は召使・御者等に至るまで、その生活様式は広汎に亘り、近時は科学芸術方面にも進出する者が多いとのことで、従って回教《イズラム》の信仰も彼等の間では弛んで来たそうだ。私たちは丁度ラマダン(回教の斎戒断食の月)の期間にエジプトを見て廻ったが、そういえばその斎戒なるものもかなり形式化してるように見受けられた。次には(五)トルコ人。これは昔の支配時代の盛んな勢力にも似ず、今では甚だ微力で、官吏・軍人・商人の中に少数交っているが、トルコ語がエジプトでは殆んど通用しないのを以っても、勢力のなくなってることが想見される。次には(六)シュリア
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