人、その他近東アジア人。これ等は先祖を忘れてアラビア語を母語としてるが、それでも言葉の習得に達者で、近代ヨーロッパ語をよく話し、店員として重宝がられ、領事館などにも使用されてる者が多く、しかし政治的・社会的には非力である。次に(七)アルメニア人がある。ユダヤ人と共に金儲けにかけては抜群の素質を持つ種族で、語学の方面でもすぐれた才能を示し、貴金属・宝石類を取扱って資産を作り出す者も少くないということである。次には(八)ユダヤ人。その数は少いが天成の素質を利用してエジプト財界の中心力となっているという。
 次に蕃人の系統に属するものとしては(九)ヌビア人がある。エジプトでバラーブラといわれるのはヌビア人のことで、ニル上流地方に多く住んでいる。昔からエジプト人と反《そり》が合わないで、今日でもエジプト人(フェラヒン)との間では婚姻が行われないそうだ。アスアン付近に行くと殊に多くのヌビア人が見られるが、皮膚の黒さは煤で塗られたようである。耕作が嫌いで、家僕となるように出来て居り、その方面では正直で潔癖で使用者に喜ばれる。カイロのホテルや料理店《レストラン》には到る所に彼等が白の寛衣に赤帯を締めて食卓のサーヴィスをしてる姿が見られる。私たちが、アスアンでフィレの島へ小舟を雇った時、ヌビアの子供が四人で橈を漕ぎ、年とった親爺が舵を引いた。子供には可愛らしさもあったが、親爺の方は干し固めたように痩せしなび、真っ黒な額に白髪が乱れかかり、目がぎょろりとしてるところは、葬頭河《そうずが》の奪衣婆を男にしたようで、いかにも物凄く、広々とした江上に漕ぎ出した時はさすがに少し気味がわるかった。その実、物凄さは見かけ倒しで、恐らく気質は素樸なのだろうけれども、見た目にはたしかにバラーブラの印象を与えられた。ヌビア人は種族的に皆回教徒であるが、(一〇)スーダン人もそうである。スーダンはヌビアよりも更に上流の山地で、其処から昔奴隷としてエジプトに売られた者の子孫が多く、また近頃流れ込んだ者も少くない。家僕としてはヌビア人以上に使いよいというのが定評である。
 以上が今日エジプトを形成してる人間の概観である。その外にエジプトに定住してるヨーロッパ人も相当の数があり、一番多いのはギリシア人で、次がイタリア人、その他イギリス人、フランス人、ロシア人、ドイツ人を初め、ヨーロッパの大がいの国人が定住し、アメリカ人も相当に定住している。そのうち、ギリシア人についていえば、彼等は商人としてはエジプトに於いて成功してるほど他国では成功しないそうだが、移民の大部分は下層生活者で、ただ数の多いのが特長である。数は少いけれどもエジプトで重要な仕事をしてるのはイギリス人とフランス人である。
 しかし、だからといって、カイロをイギリス人の町ともフランス人の町ともいうことはできない。カイロは何といっても上に述べた十または九つの人種(フェラヒンだけは地方居住者だから取り除けにして)の寄合世帯の町という外はない。雑多の者が集まっててんやわんやの生活様式を作り出してる不思議な町である。
 カイロについての観察はまたそのままエジプトについても適用ができる。

    五

 或る民族は栄え、或る民族は滅び、長い目で見るとわずかの間に時勢が転変する。そのことをルクレティウスはギリシアの炬火競走に譬えて、先の走者が後の走者に生命の炬火を渡すようだといった。彼は物質の発生分子はいかなる運動に依って別の物を産み出し、またすでに生れてる物を解消させるかを論じて、事物の更新に説き及ぼし、延いて人間の仕事の集積としての国家の興亡にも触れているが、その意識の中にはローマがギリシア文化の炬火を受け継いだことが思い浮かべられていたのだろう。しかし、ギリシアの前にエジプトは長い間文化の炬火を振りかざして駆けていたのである。
 エジプトが古代に於いてその輝かしい姿を現わしていた時、エジプトと一緒に駆けていた仲間には、バビロニアがあり、アッシュリアがあり、ハティがあり、クレタがあり、その他、地中海沿岸の多くの群小競走者があった。けれどもエジプトの大跨な快足に及ぶ者はなかった。エジプトは駆けるだけ駆けて、その炬火をギリシアの手に渡した。その後、炬火は次々に西洋諸民族の手から手へと渡された。(世界のこちら側では、それとは別にまた炬火競走が行われていた。印度・支那・日本が選ばれた走者であった。今日では世界が皆一緒になって一つの大きな新しい炬火競走が始まろうとしている。)
 エジプトの古代のすばらしい優越の姿を思うと、今日のエジプト人のみじめな姿があまりにもひどい対照をなすので、旅行者は多少の感懐なしに見ることはできない。庇を貸して母屋を取られたという諺は、エジプトほど適切に当て嵌まる国は見出せない。居間にも座敷にも他所者《よそもの》が一ぱいに詰まって采配を振り、家付の無能な子供たちは裏の菜園で黙黙として土いじりをしていたり、気抜けのした別の子供たちは穴倉に追いこめられて『福音書』の暗誦で日を立てたりしてるという有様である。
 カイロ付近に堆積された七重の文化についていえば、初めのパロの文化が最も寿命が長く、第一王朝のメネスの時代を前述の如く紀元前三四〇〇年頃とすれば、その文化の系統は約三千年間続いたことになる。その後、紀元前六世紀の中葉即ち第二十七王朝から最後の第三十王朝の間へかけてペルシアの侵略があり、更に紀元前四世紀の前半にはアレクサンドロス大王に征服され、以後三百年間ギリシア系のプトレマイオス王朝が続き(その最後が女王クレオパトラであった)、その後ローマ帝国の支配が来たが、それは謂わゆるバビロン時代であった。
 だからカイロの第二文化以下は約千九百年間に六つの文化が交替したわけで、第一文化の三千年継続に比較すると、短い期間に割合に変化が頻繁であった。第二文化は初期キリスト教文化であったが、第三以下はすべてイズラム文化に改変されたのである。
 カイロの誇りとする約四百のモスクのうち約二十は時代の古さ(九世紀)または規模の宏壮さを以って代表的と見做されるものであるが、それ等の建造には初期キリスト教の寺院を破壊してその円柱(大理石・花崗岩)などを利用したものが多かった。アハメド・イブン・トゥルンは旧マスルに今残ってる見事なモスクを建てた時、キリスト教の寺院から素材を盗むことを禁じたと伝えられるが、その柱は皆煉瓦を積み上げて漆喰で包んだものである。但し、それはメソポタミアのサマラのモスクを模倣したもので、伝説のような潔白な意向から来たものではないという説もある。いずれにしても、回教のモスクを建てる時、初期キリスト教の寺院またはパロ時代の殿堂から一本石の円柱を盗んで来たことは事実である。丁度ローマでキリスト教の寺院を建てた時、古典時代の殿堂を大っぴらに利用したと同じように。しかも建築は一例で、すべて過去の文化要素を利用されるだけは利用し、利用しきれないものは棄てて顧みなかった。少くともエジプトでは、新しい文化の建設は古い文化の破壊を意味する場合が多かった。それは後継者が異人種であり、異端であったから、当然そうなるより外はなかったともいえる。
 その結果として、カイロは今見るが如きイズラムの町と化し、円屋根《キューポラ》と尖塔《ミナレット》を持った輪奐の美を誇るモスクが簇生しているが、例えば、モハメド・アリのモスクにしても、スルタン・ハサンのモスクにしても、エル・アザールのモスクにしても、イブン・トゥルンのモスクにしても、エル・リファイエのモスク(俗称|戴冠《コロネイション》モスク)にしても、それだけの様式として見ればいずれも相当に高く評価されるべきものではあるけれども、諸君がそれを見た後で、若しニルの上流地方へ行き、ルクソル、カルナク、エドフ、デンデラなどの古代王朝時代の壮大華麗の殿堂の遺物を見たならば、それこそ日光から奈良へ行ったような感じがするに相違ない。古代王朝の遺物は、大きさに於いても、美しさに於いても、殊に芸術的品格の高さに於いては、殆んど比較を絶するものであるから。
 同じことは芸術の他の部門についてもいえる。例えば、墓にしても(墓もエジプトでは芸術である)、ルクソルの対岸の岩山を抉り抜いて造った古代の王と王妃の無数の墓窟の構造と装飾は、カイロ東郊の哈利発《ハリハ》の墓やマメリュクスの墓などの比較になるものではない。
 その他、古代王朝の最大の遺物なるピラミッド、スフィンクス、オベリスク等のすばらしさに至っては、今更いうまでもなく、到底中世のイズラム文化の造り出した記念物などの及ぶところではなく、強いてその対比を求めれば、わずかにただ古代ギリシアの芸術的遺物を挙げ得るのみである。
 その古代エジプト王朝時代の遺物がメムフィスの地に殆んど全く見られなくなってるのは返す返すも惜しむべきである。最古の「白壁」の王城とか、初期のプタ※[#小書き片仮名ハ、1−6−83]殿堂とか、そういったものはもとより保存を望むべくもないが、ルクソル付近の実例からいっても、第十九王朝のラメセス二世の遺物ぐらいは、度々の兵火さえなかったら、今も見られる筈であったと思う。ラメセス二世はアジア攻略の便利のためにテバイから三角州《デルタ》に都を移した。それは今のタニス付近といわれるが、メムフィスにも大きな殿堂が建てられた。その殿堂の前に立っていたと推定されるラメセス自身の花崗岩の巨像が、メムフィスの棕櫚の木の茂みの中に仰向けに倒れている。頭から王冠が折れ飛んでるのもあわれであれば、穢ない子供たちがその上に攀じ登って遊んでるのもあわれである。
 メムフィスにはラメセス二世の巨像が今一つ残っている。今いった野天の巨像から西の方へサッカラ道を少し行くと、棕櫚の木の更に夥しく茂った間に泥土の家が建っていて、家の中一ぱいに巨像が横たえられてある。巨像の倒れてる上を後から家で包んで、入場料四ピアストルを徴収するような設備にしたのであろう。長さ四十二|呎《フィート》のひどく堅い一本石の石灰石の立像で、殊にその顔の晴れやかな美しさは無類である。少し吊り上った口角の素樸《アーケイク》な微笑も印象的であれば、王冠の前部のコブラの形もうまい。非常に技術のすぐれた彫像である。此の巨像は今にカイロに運ばれてラメセス広場に立てられる計画があるというが、その時は恐らくカイロにあるすべての物を圧倒するほどに異彩を放つであろう。



底本:「世界紀行文学全集 第十六巻 ギリシア、エジプト、アフリカ編」修道社
   1959(昭和34)年6月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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