の下に、初期キリスト教は迫害に抗しながら根強い力で弘まりつつあった。カイロを初め、エジプトの各地に、今日もコプトのキリスト教が相当に信者を持っているのはその頃からの子孫だといわれる。それ以前にマリアが赤ん坊のキリストを抱いてユダヤ王の迫害からしばらく隠れていたのも今のカイロ付近だった。実際、エジプトのバビロンといえば、その頃は昔のアジアのバビロンよりも有名だったが、今もカイロの郊外にデイル・エル・バビロンの名が残っている。
 七世紀の前半にアラビア人の侵入が始まった。哈利発《ハリハ》オマルの派遣したアムル・イブン・エル・アジという猛将が攻め込んで来て、バビロンの城砦を陥れ、エル・フスタト(フォスタト)と呼ばれる都市を作った。今のカイロ市の南に隣接する謂わゆる旧カイロがその記念として残ってる区域で、エジプトの回教化はその時代から間断なく行われた。フスタトの語意についてはいろんな説があるが、ローマ人がバビロンの城砦に外濠を繞らしてフォサトゥムと呼んでいたのを、アラビア語化してフスタトとし、陣営[#「陣営」に傍点]の意味で用いたという説が妥当らしい。スタンリ・レインプールの『中世』に拠ると、
前へ 次へ
全30ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング