よそもの》が一ぱいに詰まって采配を振り、家付の無能な子供たちは裏の菜園で黙黙として土いじりをしていたり、気抜けのした別の子供たちは穴倉に追いこめられて『福音書』の暗誦で日を立てたりしてるという有様である。
 カイロ付近に堆積された七重の文化についていえば、初めのパロの文化が最も寿命が長く、第一王朝のメネスの時代を前述の如く紀元前三四〇〇年頃とすれば、その文化の系統は約三千年間続いたことになる。その後、紀元前六世紀の中葉即ち第二十七王朝から最後の第三十王朝の間へかけてペルシアの侵略があり、更に紀元前四世紀の前半にはアレクサンドロス大王に征服され、以後三百年間ギリシア系のプトレマイオス王朝が続き(その最後が女王クレオパトラであった)、その後ローマ帝国の支配が来たが、それは謂わゆるバビロン時代であった。
 だからカイロの第二文化以下は約千九百年間に六つの文化が交替したわけで、第一文化の三千年継続に比較すると、短い期間に割合に変化が頻繁であった。第二文化は初期キリスト教文化であったが、第三以下はすべてイズラム文化に改変されたのである。
 カイロの誇りとする約四百のモスクのうち約二十は時代の古さ(九世紀)または規模の宏壮さを以って代表的と見做されるものであるが、それ等の建造には初期キリスト教の寺院を破壊してその円柱(大理石・花崗岩)などを利用したものが多かった。アハメド・イブン・トゥルンは旧マスルに今残ってる見事なモスクを建てた時、キリスト教の寺院から素材を盗むことを禁じたと伝えられるが、その柱は皆煉瓦を積み上げて漆喰で包んだものである。但し、それはメソポタミアのサマラのモスクを模倣したもので、伝説のような潔白な意向から来たものではないという説もある。いずれにしても、回教のモスクを建てる時、初期キリスト教の寺院またはパロ時代の殿堂から一本石の円柱を盗んで来たことは事実である。丁度ローマでキリスト教の寺院を建てた時、古典時代の殿堂を大っぴらに利用したと同じように。しかも建築は一例で、すべて過去の文化要素を利用されるだけは利用し、利用しきれないものは棄てて顧みなかった。少くともエジプトでは、新しい文化の建設は古い文化の破壊を意味する場合が多かった。それは後継者が異人種であり、異端であったから、当然そうなるより外はなかったともいえる。
 その結果として、カイロは今見るが如きイズラム
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