メリカ人も相当に定住している。そのうち、ギリシア人についていえば、彼等は商人としてはエジプトに於いて成功してるほど他国では成功しないそうだが、移民の大部分は下層生活者で、ただ数の多いのが特長である。数は少いけれどもエジプトで重要な仕事をしてるのはイギリス人とフランス人である。
しかし、だからといって、カイロをイギリス人の町ともフランス人の町ともいうことはできない。カイロは何といっても上に述べた十または九つの人種(フェラヒンだけは地方居住者だから取り除けにして)の寄合世帯の町という外はない。雑多の者が集まっててんやわんやの生活様式を作り出してる不思議な町である。
カイロについての観察はまたそのままエジプトについても適用ができる。
五
或る民族は栄え、或る民族は滅び、長い目で見るとわずかの間に時勢が転変する。そのことをルクレティウスはギリシアの炬火競走に譬えて、先の走者が後の走者に生命の炬火を渡すようだといった。彼は物質の発生分子はいかなる運動に依って別の物を産み出し、またすでに生れてる物を解消させるかを論じて、事物の更新に説き及ぼし、延いて人間の仕事の集積としての国家の興亡にも触れているが、その意識の中にはローマがギリシア文化の炬火を受け継いだことが思い浮かべられていたのだろう。しかし、ギリシアの前にエジプトは長い間文化の炬火を振りかざして駆けていたのである。
エジプトが古代に於いてその輝かしい姿を現わしていた時、エジプトと一緒に駆けていた仲間には、バビロニアがあり、アッシュリアがあり、ハティがあり、クレタがあり、その他、地中海沿岸の多くの群小競走者があった。けれどもエジプトの大跨な快足に及ぶ者はなかった。エジプトは駆けるだけ駆けて、その炬火をギリシアの手に渡した。その後、炬火は次々に西洋諸民族の手から手へと渡された。(世界のこちら側では、それとは別にまた炬火競走が行われていた。印度・支那・日本が選ばれた走者であった。今日では世界が皆一緒になって一つの大きな新しい炬火競走が始まろうとしている。)
エジプトの古代のすばらしい優越の姿を思うと、今日のエジプト人のみじめな姿があまりにもひどい対照をなすので、旅行者は多少の感懐なしに見ることはできない。庇を貸して母屋を取られたという諺は、エジプトほど適切に当て嵌まる国は見出せない。居間にも座敷にも他所者《
前へ
次へ
全15ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング