桂の離宮の思ひ出。
 庭を一巡して、最後に笑意軒と銘を打つた亭に辿りつく。遠州侯の忘れ窓といふので名を得てゐる茶席である。軒端に近く、横に細長い窓が高く開《あ》いて、葛《かづら》の捲きついた竹の格子が半分だけ未完成の形に殘されてある。さういつた洒落《しやれ》た氣持は私にはどつと來なかつたが、ただ一つ印象に殘つてゐるのは、此の亭の後《うしろ》の窓の下がすぐ田圃になつて、そこから田植を見物するために、離宮の周圍はすべて竹林になつてゐるけれども、その部分だけは竹を植ゑないで、開けひろげてあつたことである。さうしてその視野の範圍内の田圃はすべて御領地となつてゐたことである。
 それについて思ひ出したのは、私の友人W君の本家がまだ退轉しなかつた頃、或る日、誘はれてその目白の庭園を見に行つた。以前の居住者T伯爵が宮内大臣をしてゐた時、木曾の御領林から切り出した檜材で建てたと噂されてゐた大きな寢殿造の建物なども見たが、そんなものよりも庭の方が私には興味があつた。起伏の多い廣大な地形が、巧みに、自然に利用されて、森森たる深山に分け入つたやうな感じを起させるやうに工夫されてあつた。溪流が曲りくねつてゐた
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング