晩に頼んで置いた舟の用意が出來たといふ知らせはまだ皆んなの寢てゐる内にあつた。朝飯がすむとおかみが上つて來て、船便を借りたいといふ人が二人あるといふことであつた。私たちは差支へないと答へた。
 今日は湖水を二つ横斷して、その間にある小さい峠を越えて、三つ目の湖水に達するまでに二里の森林を通り拔けねばならぬので、例の大カバンのために一人の人夫を傭ふことにした。船津から精進《しやうじ》まで二圓といふ約束で。
 渡船は宿屋のすぐ下の濱邊から出て、向の長濱といふ小さい村に着いた。九時半。富士は昨日よりよく見えたが、それでも顏だけはヴェイルを取らなかつた。六合目か七合目かの石室が肉眼でもよく見えた。馬返しの附近にはもう登山の群が見える頃だといふので、舟の中から頻りに望遠鏡をのぞいたけれども、なんにも見えなかつた。
 舟の中の話は船津の宿屋の惡口が大部分であつた。此間亡くなつた和田垣博士の駄洒落の話をする者もあつた。青楓君はその間眠つてゐた。道づれになつた二人の青年は默つて、舳《へさき》の方に頬杖をついて山ばかり見てゐた。二人とも切り立ての脊廣に赤靴をはいて、ゲイトルもかけてゐなければ洋傘も持つて
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