はシテを基本として推しながら、決して安価な妥協をせず、真実は懸命に対抗して、即かず離れずの妙技を見せることを最上とした。けれども今日では(全体の技術の水準が下つたせゐもあらうが)互ひにいいかげんな所で妥協して、昔の金春大夫と宮王大夫の逸話にあるやうな真剣勝負的な競演などは見られなくなつた。
金春大夫、名は安照、禅曲と号し、俗に大大夫《だいたいふ》と呼ばれた。太閤秀吉に贔屓されて、桃山時代の能界の第一人者であつた。或る日秀吉が大大夫に「二人静《ふたりしづか》」を所望した。大大夫は適当なツレがないからといつて辞退した。「二人静」は両ジテともいはれる能で、シテとツレと相舞をするので、シテに劣らぬほどのツレを得なければ舞へない。大大夫が辞退したのはその理由からであつた。しかし、金春には当時七大夫と呼ばれて、大夫を称するツレの家が七つもあつた。殊にそのうちでも宮王大夫は大大夫にも劣らぬ勘能の者であつた。秀吉は大大夫と宮王大夫を並べて「二人静」が見たかつたのである。ところが大大夫は宮王大夫と仲違ひをしてゐたので、彼と共演したくなかつた。その事情を陳述すると、秀吉は承知しないで、此の能一番に限つて
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