は思ふけれども、それだけでも優に一巻となるほどの大きな問題であるから、それは他の機会に譲ることとして、此処には極めて基本的な一二の点だけに触れて置くことにしよう。
能の演出を根本的に裏づけるものは序《じよ》・破《は》・急《きふ》の原則である。序は初めの部分で、それをば遅滞しないやうに大まかに進め、見物人の興味を早く主要部の方へ導く方針で運ばせねばならぬ。次の主要部に於いては、見物人を十分に娯しませるやうに、表現を細かに砕き(それを砕破もしくば破といふ)、それが為の進行の遅滞は止むを得ない。しかし、最後の部分になると、もはや見せるべき重な物は見せてしまつたし、聞かせるべき重な物は聞かせてしまつたのだから、終局に向つて急ぐだけの仕事が残つてゐる。だから急といふ。此の序・破・急は、一面から見れば時《テンポ》の速さの原則であり、また他の一面から見れば、表現の密度の原則である。表現の密度が粗ければ、従つてテンポも早くなり、表現の密度が細やかになれば、同時にテンポも緩くなる。だから、序の部分は表現がやや粗く、テンポもやや早く、破の部分は表現が細やかで、テンポも緩く、急の部分は表現が最も粗く、テンポも最も早くなるのは自然の道理である。
此の原則は能のすべての表現を支配する。一番の能を演じる時も此の原則で行はれ、一部の詞章を表現するにも此の原則で行はれ、また一聯の番組(例へば五番立の演能)を上演する場合にも此の原則以外にそれを支配すべき法則はない。
例へば「高砂《たかさご》」を演じるとする。初めにワキ・ワキヅレが次第《しだい》の囃子で登場して一定の場所に着座するまでは序の部分であるから、これは粘らずにサラリと運ばねばならぬ。次に一声《いつせい》の囃子でシテ・シテヅレが登場して一定の場所に達する所はすでに破の部分に入つたのである(破の第一段)から、ワキ・ワキヅレの登場よりもずつと位を持つて、表現も細やかになり、それだけテンポも緩くなつてよい。次にワキとシテ・シテヅレの問答が始まつて初同(最初の同吟)の終るまで(破の第二段)は、同じ調子のつづきではあるけれども、まだその次に主要な部分が控へてゐるので、テンポも緩くなり過ぎてはならない。次のクリ・サシ・クセからロンギの終りまで(破の第三段)は全曲の最も主要な部分であり、表現も入念に、従つてテンポも緩くなつてよい。(といつても此の曲は脇能であるから、緩さにもそれ相応の程度のあることはいふまでもない。)併し、その次の中入後のワキ・ワキヅレの待謡《まちうたひ》から、後ジテの出端《では》の登場・神舞《かみまひ》・切《きり》のロンギまでは、全曲の急の部分であるから、これはテンポを早めて颯爽たる所を見せねばならぬ。
此の序・破・急の原則はすべての能に皆適用されるべきものであるが、曲に依つて必ずしも一一の能が悉く五段(序一段・破三段・急一段)に区分されるとは限らず、中には四段に区分されるのが妥当の物もあり、或ひは六段に区分されるべき物もあるけれども、概括的に見て序・破・急の原則に当て嵌らないものとてはないのである。
その原則はまた一番の能の中の一部分にも適用される。例へば「高砂」の急の部分、即ち中入後の部分だけについて見ても、初めのワキ・ワキヅレの待謡は序の部分、次の後ジテの出端の登場から神舞までは破の部分、最後の切は急の部分である。
更にその最後の切だけについて見ても、その中にもまた序・破・急があり、更にその中のどの一部分について見ても、そこにもまた序・破・急がある。といつたやうに、全体的にも部分的にも、序・破・急の原則は緊密に表現を支配してゐる。
更に幾番かの能を連結して一つの番組を作成する場合にも、その演出を支配するものは序・破・急の原則である。例へば五番の能をつなぎ合せて上演する場合ならば、初番の脇能は序の能であり、二番目修羅物・三番目鬘物・四番目現在物は破の能であり、五番目鬼物は急の能である。さうして破の能三番の中心たる鬘物は、同時に番組全体の中心でもあるから、最も肝要の能であり、表現も最も慎重に行はれねばならぬ。また三番立の演能の場合ならば、その編成の方法は幾通りもあり得るが、例へば初番に修羅物を置けばそれが当日の序の能であり、次に狂女物を据ゑればそれが破の能であり、最後に早舞物を持つて来ればそれが急の能である。修羅物は五番立の演出の時は破の初めの能であつても、初番に置かれる時は序の能の位で演じられなければならず、また狂女物は本来(五番立の標準でいへば)破の末の能であつて、急の能に接近した調子を持つてゐるべきであるが、それが三番立の演出の二番目に据ゑられた時は、番組の中心となるのだから、破の能の位で演じられなければならぬ。
かくの如く、一つ一つの能は単独にそれ自身の調子の位は持つけれど
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