も、演出の位置の変更に依つてその調子の位合に変動が生じるといふのは、どこまでも序・破・急の原則が演出を一つの完全な表現として仕立て上げねばならぬからである。
 序・破・急の原則は、歴史的には、もと舞楽の表現の原理として伝へられたものであつたが、それを巧みに能の表現の原理として取り入れたのは主として世阿弥の功績である。しかしその名称こそは特殊であるが、すべての芸術的表現に於いて、意識的にか無意識的にか、苟くも此の法則に支配されないものはないといつてよい。ただそれを逸早く自覚して表現の基本原理として適用した所に、能の演出の様式の確立が助けられたといふ強みがあつた。
 能の演出は割合に早く様式化されてしまつたけれども、能役者は、少くとも彼が芸術家である限りは、その様式化された技術の束縛の範囲内だけに跼蹐してゐることは忍べなかつた。彼は絶えず自由を求め、自己を表現しようと努めた。その努力が甚だ末梢的な技術の上にのみ止まるものもあつたけれども、またしばしば技術を突き抜けて、より多く精神的な芸術の根本表現を揺り動かさうとするものもあつた。能の技術は、昔から名人・上手といはれた多くの役者たちの発明の堆積であるから、その伝統を習得することは自己の表現の基礎を形作ることに役立つのはいふまでもないが、そこで止まつてしまつては徒らに先人の真似事をするのみであつて、彼自身の芸術ではない。真の芸術家は先人の伝統を踏まへてその上に一歩を踏み出さねば安んじられるものではない。ただ未熟な者が先人の技術の堆積の上にも攀ぢ登れないで、ほしいままに自己を発揮しようとすると甚だ拙劣醜悪なものを見せることになるので、それは慎まねばならぬとされてはあるが、すでに先人の伝統を体得した以上は、そこから彼自身の芸術が始まるべきだといふことを忘れてはならない。それ故に、創意に富む芸術家は、先人未踏の領域に分け入らうとする野心を持つ。能役者にも古来しばしばさういつた冒険者があつて、謂はゆる「一工夫《ひとくふう》」を試みる者が少くなかつた。いたづらに旧弊を固執しようとする者の目には異端視されるであらうが、能を自己の芸術表現の手段として考へる者に取つては止むに止まれぬ衝動の発揮であつた。われわれは、さういつた芸術的冒険者の努力を買つてやるべきである。
 一例を示せば、能の演出に小書《こがき》といふ様式がある。それは能の特殊演出を意味するもので、古来からの伝統を破つて別の形式で演出を変更しようとしたものである。中には怪我の功名ともいはうか、一場の失策が意外にも効果的であつたので、それが一種の小書として遺つたものもあるけれども、多くは芸術的冒険者が苦心惨澹して工夫し出した伝統破壊の記録である。
 小書といふのは能の曲目の左側に特殊演出の様式の名称を小さく書き記すからの呼びならはしで、それが諸流に夥しく堆積してゐる。例へば「高砂」の特殊演出としては、「流八頭《ながしやつがしら》」とか「八段之舞《はちだんのまひ》」とか「真之型《しんのかた》」とか「序破急之伝《じよはきふのでん》」とか「大極之伝《たいきよくのでん》」とか「真之掛留《しんのかかりとめ》」とか「作物出《つくりものだし》」とか「祝言之式《しうげんのしき》」とか「祝言之舞《しうげんのまひ》」とか、さういつた小書がある。もともと、一つの小書は或る一流に限られたものであつただらうが、次第に他流でもそれを真似るやうになり、今日ではどの流儀の創意に成つたのかもわからなくなつたほどに共通してゐるものも少くない。
 小書が附いて特殊演出となると、さまざまの変化が生じる。或ひは役者に移動が生じたり(例へば「老松《おいまつ》」に「紅梅殿《こうばいどの》」といふ小書が附くと常は登場しない天女のツレが登場するとか、「絵馬《ゑま》」に「女体《によたい》」といふ小書が附くと、常は力神をシテとする流儀がそれをツレに廻はして、女神をシテに立てるとか)、或ひは舞が変つたり(例へば「老松」の「紅梅殿」でいふならば、真《しん》ノ序《じよ》ノ舞《まひ》は常はシテが舞ふのであるがそれをツレの天女に譲り、シテはイロヘ掛《がかり》の短い舞をまふだけになつたり、また「絵馬」の「女体」では、神舞を急の位でシテの女神が舞ひ、神楽《かぐら》をツレの天女が舞ひ、急《きふ》ノ舞《まひ》をツレの力神が舞ふことになつたり)、或ひはそれに従つて囃子がちがつて来たり、或ひは役者の扮装が変つたり、或ひは常は出さない作物を出したり、或ひは詞章が省略されたり、別の詞章を挿入したり、順序をちがへたり、更に或ひは演出の強調の要点が変つたりもする。これは五百年も六百年もの間、いつも同じ物を同じ行き方で演出するのに倦きて新奇を求めようとする心も手伝つてであらうが、それには役者の創意がなければ企て得ない仕事であ
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