、音声を彩るべし」と教へ、アヒの狂言に対しても、「笑の中に楽を含む」といふことを記憶して、シテの調子をこはさない程度に自然の滑稽味を作り出すやうにすべしと教へてゐる。要するに、すべての役役の人は「一座のシテの感」を基準として行動すべきことを示したもので、その掟は長く守られてゐた。
しかし、それには一座の棟梁たる者は他の誰よりもすぐれた技芸者たることが必要条件であつた。また、事実、幕府時代の能の制度は(多少の例外はあつても)概して一座の棟梁を第一の技芸者として作り上げ得るやうにできてゐた。けれども今日は必ずしもさうでなく、各流派の実際について見ても、家元自身が第一の技芸者であるものは一人か二人に過ぎない。殊にまた、ワキ・アヒ・囃子方に至つては、昔の座附の制度は滅びてしまつて相互の間に遠慮もあり、譲り合ひもあり、少くとも明治時代の統制さへも期待することはできなくなつてゐる。
昔の能は統制の中にも或る程度の自由競争があつて、シテとワキと、シテと囃子方と、囃子方と地謡と、真剣に鎬を削つて、負けず劣らず張り合ひながらも、全体としての調和を皆考へてゐたといはれる。そこに能の面白味があつて、表面はシテを基本として推しながら、決して安価な妥協をせず、真実は懸命に対抗して、即かず離れずの妙技を見せることを最上とした。けれども今日では(全体の技術の水準が下つたせゐもあらうが)互ひにいいかげんな所で妥協して、昔の金春大夫と宮王大夫の逸話にあるやうな真剣勝負的な競演などは見られなくなつた。
金春大夫、名は安照、禅曲と号し、俗に大大夫《だいたいふ》と呼ばれた。太閤秀吉に贔屓されて、桃山時代の能界の第一人者であつた。或る日秀吉が大大夫に「二人静《ふたりしづか》」を所望した。大大夫は適当なツレがないからといつて辞退した。「二人静」は両ジテともいはれる能で、シテとツレと相舞をするので、シテに劣らぬほどのツレを得なければ舞へない。大大夫が辞退したのはその理由からであつた。しかし、金春には当時七大夫と呼ばれて、大夫を称するツレの家が七つもあつた。殊にそのうちでも宮王大夫は大大夫にも劣らぬ勘能の者であつた。秀吉は大大夫と宮王大夫を並べて「二人静」が見たかつたのである。ところが大大夫は宮王大夫と仲違ひをしてゐたので、彼と共演したくなかつた。その事情を陳述すると、秀吉は承知しないで、此の能一番に限つて共演しろ、その後はまた仲違をしたくば勝手にしろ、といつた。大大夫は仕方なく承諾した。当日まで二人は申し合せなどはもちろんすることなく、いよいよ幕を出る間際になつて、宮王大夫は大大夫に向ひ、どちらが先に出るのかと聞いた。大大夫は宮王大夫に先に出ろといつた。先に出る方がツレの役である。やがて二人は舞台に出ても、日頃の鬱憤が晴れないで、互ひに協調しなければならぬことは知つてゐながらもそれがしたくなく、互ひにむきになつて対抗しながらも併し不調和になつてはいけないといふことは知りきつてゐた。その真剣な競演はクセになつて絶頂に達した。「神の宮滝」の地で、一人が正面へサシ込むと、他の一人はわざと下をサシ廻し、「西河の滝」で、一人が下を見ると、他の一人は上を見る。と、いつたやうな風で、互ひに即くまい即くまいと努めながら、それでゐて、要所要所は一糸乱れず呼吸が合つてゐたので、秀吉は期待した以上の面白い能を見ることができて満足したといふのである。
此の話はどの程度まで事実であるか知らないが、昔の能の演出の一つの情景を伝へてゐる点で興味がある。能に限らず、すべて昔の日本の技芸は各人が真剣になつて最善をつくすところに妙味があつた。剣道などでは殊にそれが生命となつてゐた。その場に臨むと、親、親に非ず、師、師に非ず、といつたやうな意気があつた。その意気が昔は能の演出の生命であつた。しかし、今日の能の演出にはその意気はあまり見られなくなつた。もしそれが全く見られなくなつた時は、能は(今日の舞楽と同じやうに)憐れな美しい屍骸と化した時である。能は、少くとも形式だけは、まだ長くつづくであらう。しかし、現下の状態では余命幾ばくぞやの感なきを得ない。
事態かくの如くなつた以上は、もはや昔の演出の組織の如くシテを舞台監督者と見做して統制しようとしても、それは木に縁つて魚を求めるが如きものである。実行の可能な一つの方法としては、宝生九郎翁の如く、最も有能な実力者が後見となつて、或ひは地頭となつて、演出を監督すべきである。しかし、その前に、能役者・アヒ・囃子方・地謡の性根から入れ替へてかからなければならぬことは言ふまでもない。
さて、舞台監督の談義が少し長くなつたが、前にも述べた如く、能の芸術価値は殆んど全くその演出の上に係つてゐるのであるから、その演出の理論と実際について少し詳細に亘つて述べて見たいと
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