まではテュイルリの花の前に、ヴェルサイユの月の下に金髪を揺るがし、綾羅の裳裾を翻えして踊り戯れていた美人たちであったが、狂暴なフーキエ・タンヴィルの判決を言い渡されて、次々にコンコルド広場のギヨティーヌへと運ばれた。ギヨティーヌは気ちがいのように活動して一分に一つの割合でさまざまの首を断ち落した。宮廷婦人たちがその美しい姿態をクール・ド・ファムの噴水のほとりに見せていたのもまことに日蔭待つ間の牽牛花の運命に過ぎなかった。
 婦人たちが次次に殺されたのは、バスティーユの牢獄に革命の火の手が挙って五年目、一七九三年の夏から秋へかけてのことであったが、その前年の秋にはこの中庭で今一つの恐るべき事件が起った。「九月の虐殺」と世に言われる事件で、フランス国内は鼎の沸くが如くに乱れていた時、外からドイツ軍・オーストリア軍が迫って来たのは、貴族・僧侶が誘導したのだという宜伝に煽られて、地方でもパリでも到る所に虐殺が行われた。虐殺された者の数は一万二千人とも報告され、また千八十九人であったとも報告されている。昔のバルテルミの虐殺、アルマニャクの虐殺、シチリアの虐殺と共に、世界文化史上で最も恥ずべき人
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