コ牢とコンコルド広場ほど傷ましいものはない。コンコルド広場は今は繁華の中心地となって、ルクソル(エジプト)から運んで来たラメセス二世の方尖柱《オベリスク》が聳え、私たちが歩きまわっていた頃はその周りを昼も夜も忙しそうな平和の車の奔流が渦巻いていたが、革命の時はまだ方尖柱《オベリスク》は立ってなく、その代りに恐ろしいギヨティーヌ(断頭台)が立っていて、名前も革命広場と呼ばれ、ある日には王の首が断たれ、別の日には王妃の首が断たれ、また別の日にはロベスピエールの首が断たれ、その他、貴族・公吏・ジロンド党員等、無量二千の首が刈り取られた。実際少しでもフランスの歴史を知ってる者にはその頃の恐怖を回想することなしにはパリの町は歩けない。
私たちはコンシエルジュリを見て置いたために、またヴェルサイユの宮殿やテュイルリの宮殿をのぞいて置いたために、また革命博物館やカルナヴァレ博物館を一巡して置いたために、七月十四日の革命記念祭――しかもその年(一九三八年)は革命百五十年祭――の日に、昼間はシャンゼリゼの大通りを練って行くフランス陸軍(それにイギリスの軍隊も参加して)の大行進を見、夜はバスティーユ広場
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