鑿したり、カピトリーノ殿堂を造営したりした。
しかし、タルクィニィ家はあと一代でつぶれ、ローマは新しい共和制で支配されることとなった。紀元前五〇九年で、その頃からローマ市民は近隣に優越する国家の経営を理想として努力し、中頃(前三九〇年)ゴール人の侵入で一時荒廃に瀕したことはあったけれども、また立ち直って水道を敷設したり、道路を開通したりして文化的施設を進め、一面ギリシア文化の後継者としての自信を持つようになると共に、また一面軍備を拡張して世界経営の野心を抱くようにもなり、ユリウス・ケーサルの斃死(前四四年)を転機として帝政時代に入り、最初の皇帝アウグストゥス・ケーサルの治世はローマの黄金時代として謳歌された。ヴェルギリウス、ホラティウス、オヴィディウス等の詩人の輩出したのもその時代だった。
その後乱暴な皇帝(ティベリウス、カリグラ、ネロ、等)も出たが、ローマの富強は大したもので、「すべての道はローマへ通じる」といわれたように、ローマは世界の中心となり、ハドリアヌス(十四代目の皇帝)の頃には Roma aeterna(永久のローマ)という言葉ができたほどに、その富強はいつ減退するとも思われなかった。
そういった時代のローマの繁栄の中心地はパラティーノであったことを念頭に置いて、さて山の上を一瞥しよう。
三
フォーロ・ロマーノの東端に立つティトゥスの門の前から坂道を登って右へ折れると、栢樹の密生した一区劃(ジェルマルス)がある。ティベリウス(二代目のローマ皇帝)の宮殿の跡だが今は何物もない。前世紀の中頃ファルネーゼ家から一時ナポレオン三世の手に移り、古代の彫像を発掘したのでがらんとしてしまったのだという。掘り出された彫像はフランスに運ばれて今ルーヴルにある。
ティベリウスの宮殿はカリグラ(三代目の皇帝)に依って拡張され、そのうち北側の一部分は今もカリグラの宮殿と呼ばれて、バルコンの礎石が残っている。フォーロ・ロマーノからカピトルへかけて展望の開けた崖の端である。カリグラは此処から下の谷を越えてカピトルまで長い橋を架けようと計画した。サン・フランシスコのトランス・ベイ橋や、ニュー・ヨークのトライ・バラ橋を架けた今のアメリカ人が計画したのなら驚かないが、二千年前の設計としては奇想天外な思いつきだったに相違ない。その後で、ネロ(五代目の皇帝)は此の宮殿か
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