シェイクスピアの郷里
野上豊一郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)杏子《エイプリコト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)劇場設計の「|最後の言葉《ザ・ラスト・ワード》」と
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)榲※[#「木+孛」、第3水準1−85−67]《クインス》
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔The labours of an age in pile'd stones?〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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[#ここから1字下げ]
I pray you, let us satisfy our eyes
With the memorials and things of fame
That do renown this city;
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]――Twelfth Night
一
ストラトフォード・オン・エイヴォンへは、なるべくシェイクスピア祭の季節に行きたいと思っていたところへ、折よく水沢君と工藤君に誘われ、水沢君の車で出かけようということになった。ロンドンからストラトフォードまでは九十マイルそこそこで、汽車で行っても四時間ぐらいなものだけれども、イギリスの田舎はどこも綺麗で公園のようだから、自由のきく車でドライヴすることができたら、それに越したことはないのだ。
時は四月の中旬で、空を見ても樹を見てもなんとなく春めいて来たし、それに私のイギリスでの講義もやっと片づいたし、ローマにいた長男からは大学で講座を持つことにきまったといって来たし、つい二三日前、日本からの便りでは、二男は福岡へ転任して、これも新設の物理学の講座を持つことになるらしく、三男も工学部に入学ができたという知らせがあったので、私たちは久しぶりでほがらかな気持になって旅に出かけられたのであった。
誰かが、ストラトフォード・オン・エイヴォンのことをイギリスのメッカだと言っていたが、少くともイギリス文学をかじってる者にとっては、シェイクスピアの生れた土地、シェイクスピアの骨の埋もってる土地を見に行くのは、回教徒が聖地へ巡礼に出かけるようなものである。私にとっても、これまでたびたびシェイクスピアについて講義をしたこともあり、東京を立つ前には『マクベス』の翻訳を出したばかりではあり、『オセロー』にも手をつけたままで出かけて来たようなわけではあり、何かにつけてシェイクスピアには世話になってるので、かたがたお詣りしなくては義理が立つまいと思われた。
二
その日(十一日)午後二時ごろ、水沢君と工藤君と、水沢君が操縦して、私たちのハムステッドの家に迎えに来てくれた。
ロンドンから郊外へ出て、磨き立てたようなアスファルト道路を一直線に西北の方へ駈けらして行くと、すぐ例の緑の絨氈を敷きつめたような牧場が行手にひろがり、そこここに桃の花が咲いていたり、黄いろいえにしだ[#「えにしだ」に傍点]の花がかたまっていたり、その間に鶏が群れていたり、牛が寝ころんでいたり、羊が歩きまわっていたり、農家のとびとびに見える岡の上には寺の尖塔が木立の間からのぞいていたり、平和なのどかな画面がつぎつぎに展開して来るのが飽きることなく眺められた。
詩人クーパーの生れたバーカムステッドという小さい村を通るといかにも古い家々が太い材木の骨を壁の上に露出して、屋根瓦は苔で青くなって居り、前庭にはダフォディルや、名前は知らないが紫の美しい草花などが咲き出していた。気の弱い孤独な病身な詩人のことを私はしばらく思い出していた。しかし、彼が五十を過ぎて親切な女友だちに慰められながら『ジョン・ギルピン』や『ザ・タスク』などの詩を書いたオーニという村は、私たちの通ってる所から二十四五マイルも北にあることを地図で知った。
沿道の郊野はどこも気持よく手入れされ、古いものは古いなりによく保存されてあるのが、私たちを喜ばしたが、バンベリの手前のエインホウという村ほど惹きつけられた所はなかった。その村は高台になっていて、南西にはオクスフォードが近く、北西はバンベリを経てウォリク、レミントン、或いはバーミンガムへの通路があり、交通の要路であったが、鉄道が開通してから淋しく取り残された土地と見えて、今まで見たどの村よりも古風な趣があり、まばらに並んでる家々は、多くは灰白色の石で畳み上げられて、或いは白堊で塗りつぶされたりしてるのが、いかにも古びに古びて、背景の美しい自然とよく調和していた。見て通りながら私たちはみんな同時に感歎の言葉を吝まなかった。中にも、右側に長く壁を列ねてホテルの看板を掲げた大きな建物は、特に目立って注意を惹いた。その壁には高さ四間もあろうかと思われる杏子《エイプリコト》の枝を見ごとに這いまとわせてあるのが十数本並んでいて珍らしかった。ケンブリッジでは木瓜《ぼけ》を同じように仕立てたのを見たけれども、こんな大きな古い木を壁に這わせたのは初めてだった。蔦ならばどこでも見受けるが、花の咲く果樹で図案風に外壁を飾るのは思いつきだとおもった。
しかし、私たちがその家に秋波を送って通り過ぎたのは、実はそういった美的鑑賞の見地からばかりではなかった。時刻はもう五時に近く、なにしろ六十マイルばかりも車に揺られ通しで、空腹を感じていたので、ホテルの看板を見ると急に茶《ティー》を思い出したのだった。あの家《うち》で休んで行こうか? そうしよう。誰が言い出すとなく言い出し、誰が同意するとなく同意して、車を回したのは、その先の四つ角を通り過ぎ坂道を下《くだ》りかかった時だった。坂の上にも一軒、傾斜の角度のちがった二つの屋根と三つの煙突を持った古い家が立っていて形がおもしろいので、車をまわす間に写生した。
ホテルにはカートライトという名前がついていた。門を入ると広い中庭で、周囲には納屋みたいな建物が並び、門を入った両側の二階屋が母屋になっていた。私たちの通されたのは、左手の薄黒いドアを開けて二つ目の部屋で、手前の部屋は酒場《バー》になっていた。通された部屋は食堂で、大きな煖炉があり、家具は樫《オーク》づくめで、樫《オーク》の円テイブルがまん中に置かれ、窓の下にはダフォディルの鉢が並んで、鳥籠には青いインコが飼ってあった。二階はすべて客間らしかった。私たちはトーストに半熟の卵を添えさせ、香気の高い紅茶を啜りながら、簡素なテューダー王朝時代の田舎家の室をいかにも居心地よく感じて、こんな所でしばらく好きな本でも読んで暮したいとか、物が書きたいとか話し合った。
三
ストラトフォード・オン・エイヴォンに着いたのは夕方だった。太陽は没していたがまだ日中の光は残っていた。エイヴォンは「銀の川」といわれるけれども、前の日に雨でも降ったものか、かなりひどく濁っていた。しかし、ヘンリ七世時代に掛けられた長い石橋を画面の中に取り入れて、白鳥の遊んでる低い川岸と、それを縁《ふち》どっている絹柳の並木とその向に聳え立ってる神聖《ホリ》トリニティの尖塔を一緒に見通した景色は何とも美しいものだった。町には、祭の季節だからだろう、人が大勢歩いていた。
まず宿を取って置く必要があったので、私たちはシェイクスピア・ホテルというのに乗りつけた。赤馬《レッドホース》というのも橋のたもとにあって、ウォシントン・アーヴィングが此の土地の印象記(それを私は中学時代に読んだ)を書いた時泊っていたホテルだというので有名だが、それをば此の土地第一の得意客なるアメリカの淑女紳士諸君のために譲ることにして、私たちはシェイクスピア・ホテルの方を選んだ。それは十五世紀に建てられた気持のよい木造三階の建物で、家具なども調和するように工夫されてあるので興味を喚び起されるが、宿泊者にとっての今一つの興味は、客室の一つ一つが作品の名を持ってることで、どんな部屋に案内されるかと思ったら、私たち二人の部屋は九号室で、All's Well that Ends Well(おわりよきものはすべてよし)だった。なるほど喜劇の外題だったら大してあたりさわりがなくてよかろうが、悲劇にはだいぶさしさわりのあるものがある、というと、喜劇だって新婚の夫婦がい L. L. L.(恋の骨折損)の部屋に通されたらどんなものだろう、とか、いや、やきもち屋の亭主と Othello《オセロー》 の寝室に寝かされたらどうだろう、とか、そんなことを話し合って笑ったが、そういえば今夜は『オセロー』の芝居を見に行くのだったと思いつき、急いで支度をしてロッビへ下りる。
廊下のつきあたりに Macbeth《マクベス》 と札を打った部屋があって、ドアがあいていたから、のぞいて見たら、読書室だった。さしさわりのある名前は客室には付けないのかも知れない。ロッビで水沢・工藤両君に部屋の名前を聞いたら Troilus《トロイラス》 and《アンド》 Cressid《クレシダ》 だといって、つまらなそうな顔をしていた。
芝居のある場所はシェイクスピア記念館《メモーリアル》といって、ホテルから歩いて五分とはかからなかった。一方はすぐ川になって、前の広場の楡《にれ》の並木には色とりどりの裸か電球が枝に付けてあるのも祭の季節だからだろうが、鄙びてストラトフォードらしかった。記念館は前世紀の七十年代に建てられたもので、劇場と塔と絵画館と図書館から出来ていたが、劇場と塔は十三年前の火事で焼けたのを再建して、七年前市河三喜君夫妻が来た頃やっと落成しそうになっていたと聞いたのが、出来上ってるのを見ると、ロンドンのどの劇場とも比較にならないほど思い切って近代的な構造である。焼けた劇場もストラトフォードの環境の中ではあまりに異色的《コンスピキアス》だといわれて焼けた当座今度建つのは劇場設計の「|最後の言葉《ザ・ラスト・ワード》」となるだろうと噂されていたが、或る意味に於いてはなるほど謂わゆる「最後の言葉」かも知れないが、古風な環境から飛び離れたものになってる点では、前の劇場は写真で見ただけだけれども、恐らく五十歩百歩だと思う。
シェイクスピア祭は四月三日に始まり九月十六日または二十三日まで続き、劇場はその間殆んど毎晩開かれ、初めの十二週間分の上演曲目六種が発表され、私たちはロンドンから座席を申し込んで置いたのでらくに入れたが、そうでないと入場ができなかったかも知れないと思われるほどの盛況だった。
配役は、オセローはジョン・ローリ、イヤゴーはアレク・クリューンズ、デズディモーナはジョイス・ブランド等の顔ぶれで、演出はロバート・アトキンズだった、殊にジョン・ローリの行き方は全然私の予期しなかったオセローで、脊丈もなく、肩幅もなく、声量も十分ではなく、肉体的にはどう見てもハンディキャップされているが、それでいて情緒のさまざまな展開を不思議に自由に見せていたのは、一つは技術のうまいのにも因るのだろうが、一つにはまた『オセロー』の作品その物が『マクベス』とか『王《キング》リア』とかに較べて悲痛の成分を多分に盛られているから、演じ易いのではなかろうかとも思われた。(此の演出の印象については別に書くつもりだから、此処にはくわしい批評は略する。)
此の演出は、私の翻訳しかけている『オセロー』の表現にとっていろいろと考えさせられたり、反省させられたりした点があって、見てよかったと思った。
しかし、あまり芝居に気を取られていて、下の食堂のテイブルの申し込みを忘れ、二階の部屋でスープとオムレツだけの簡素な晩餐でがまんしなければならなかったのは少しつらかった。
四
次の朝は早めに起きて、食事前に、子供たちと市河君に絵端書を書いた。市河君夫妻は此のホテルの M. V.(ヴェニスの商人)の
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