部屋に泊って、市河君はシルク・ハットをかぶり、晴子夫人は裾模様のキモノを着て、各国国旗掲揚式に参列したということを『欧米の隅々』で読んだことがあった。その式典はシェイクスピア誕生日(四月二十二日)に毎年行われることになってる。
昨夜は芝居で疲れてろくろく見ないで灯を消してしまったが、今朝仔細に検分して見ると、なかなかよい部屋だ。天井にも葺き下しにも太い樫《オーク》の肋骨がふんだんに使われ、床《ゆか》も柱も、棚も鏡台も、椅子もテイブルも寝台も、皆|樫《オーク》で、暖炉も似合わしく大きく、すべてがっちりして薄手なところがなく、それに三世紀以上の時代がついて黒々と古びてる具合は、何ともいえない趣を持っている。私たちはトラファルガー・スクェアの家具屋で、テューダー王朝時代の応接室用の家具一揃を見て、金が自由になるなら買って帰りたいと思ったことがあったけれども、それ等をどんな部屋に持ち込むかの問題になって苦笑したことがあった。それを今|目《ま》のあたり、調和した家の中に発見して、こんなのはイギリスでないと見られないとつくづく感心して眺めながら、工藤君と水沢君が見物がおそくなるからと誘いに来るまで、部屋を離れなかった。
町の見物のおもな個所は、シェイクスピアの生れた家と、晩年に買い取って住まっていた地所と、子供の時に通学していたグランマー・スクールと、遺骨の埋められてある寺と、そのくらいだが、それはそれとしてストラトフォードの町の或る部分はシェイクスピア時代からそのままに遺っているので、それを見て歩くだけでもよい見物である。
シェイクスピアの生れた家というのは、町の北寄りのヘンリ通《ストリート》に立つ木造の二階家で、ウォシントン・アーヴィングは、小さなみすぼらしい漆喰《しっくい》塗の木造の建物で、いかにも天才の巣ごもりの場所らしく、片隅でその雛《ひな》を孵《かえ》すのに好ましい所だ、と書いているが、それは百二十年の昔のことで、その後一八四七年以来、此の家は公有となり、一八五七年には大修繕が施され、一八九一年以来国有となり、今日では、アーヴィングを感激させた穢《きた》なたらしさは見られず、むしろ反対に、簡素ではあるが清潔な小ざっぱりした美しささえもある。入って見るとよくわかるが、もともと二軒の家をつなぎ合せて、一軒のように見せかけた拵えで、向って左側即ち西側の半分がジョン・シェイクスピア(詩人の父)の住宅、東側の半分は店に使われていたと伝えられるが、それについては異説もあり、東側の半分は住宅で、店は西側だったのではないかともいう。そういわれると、そうのようにも思えるけれども、よくわからない。確実にわかってることは、ジョン・シェイクスピアが此の家を所有して、此の家に住んでいたということだけである。随ってウィリアム・シェイクスピアが此の家で呱々の声を揚げたということは信じてよい。
入場料は一シリングで、西側の謂わゆる住宅の左寄に入口がある。下は居間と台所と他に小部屋が一つ。詩人の誕生の部屋として伝えられてるのは往来に面した二階の一室で、天井は低いが相当な広さを持ち、柱も太く、暖炉も大きく、壁の漆喰《しっくい》の下からはところどころ修覆に使った古煉瓦が露出している。室内はもちろんがらんどうで、ドアを入った右手に詩人の大きな胸像がテイブルの上に飾られ、その傍に此の粗末な部屋にはふさわしくない見事な彫のある櫃が一つと椅子が一脚置いてあるきりだ。イギリス国内はもとより、全世界から毎年八万人以上の訪問者(その四分の一はアメリカ人)があるというのも、主として墓と共に此の部屋を見るためで、謂わば一種の聖祠の如きものである。
此の部屋の特色とされてるものは、壁と天井の窓框の到る所に一面に書き散らされた訪問者の署名で、眼鏡をかけた案内人の小さな婆さんが、その中にはウォルター・スコット、カーライル、サミュエル・ジョンソン、バイロン、サッカリなどの名前も見出せるといったけれども、私はそういった人たちの筆蹟の真偽を判定し得るわけでもないから、捜すことはしなかった。それに私は近視十度の眼鏡をかけているが、実際は半分遠視になりかけて、少し距離のある細かい文字は判読しにくいので、尚更あきらめるよりほかはなかった。しかしおもしろいことに、壁も天井も一面の落書で此の上もう記入する余地がなくなったので、署名希望者は誕生日に来て別に一シリング出せば、壁の代りに記名帳に署名させることになってるそうだ。だが、金を出して帳面に記入するのでは、落書の興味は感じられないだろう。そんな人たちは自由にジョンソンやカーライルと肩を並べて署名した先輩を羨ましがっているだろう。
下の台所には珍らしいものが二つあった。一つは石畳の土間から一本の小さい柱が天井まで抜けていて、低い所に横木が通してある。何にするものかちょっとわからなかったが、婆さんの説明によると、子供がその横木につかまって押すと柱が廻るようになっている。しかしウィリがそれにつかまって独り遊びをしていたとは婆さんは断言しなかった。今一つは棚の上に載せてある古風な|鼠おとし《マウストラプ》で、二尺に一尺ほどの箱に簡単な枠《わく》を立て、枠の心棒から箱の片側の横木に糸が張ってある。婆さんはそれを指ざして、『ハムレット』に使ったのはこれです、といった。劇中劇の場面で、王が此の芝居は何という外題だと聞くと、ハムレットは The Mouse−trap(鼠おとし)と答える。はて、どうして? たとえごと。と自問自答の言葉がつづく。王の良心を罠にかけて見ようとするハムレットの魂胆を、シェイクスピアが子供の頃台所の片隅で見覚えていた此の捕鼠器から思いついたものだとすれば、たとえごと[#「たとえごと」に傍点]という所に人のあまり使わない tropically なんて変な言葉を使った心理にも、その副詞は trope という名詞から来て、figuratively と同義語になったもので、trope は元来ギリシア語の tropos(転回)から出たのだなどと、そんなうるさいことは言わなくとも、少年のウィリがいつも此の器械に鼠のかかる時枠の心棒につないだ小さい横木の廻転するのを興味深く見ていた印象が残っていて、それを trap に似た語感の上から使って見たくなったものではなかろうか、と、そんな学究もどきの役にも立たない屁理窟をこね廻して喜んだりするのは、蓋し、学究なんてものをば初めから無視していた天才の真骨頭を体得していないからだろう。
|鼠おとし《マウストラプ》はそのくらいにして今度は詩人の親爺さんの店へ案内しましょう、と婆さんに促され、東側の家に入って行くと、其処は博物室《ミュジーアム》と図書室《ライブラリ》になっていて、詩人に関する多くの遺物と肖像画出版物などが陳列されてあり、詳細なカタログが一シリング六ペンスで売られている。それを抜き書きする労力は省きたい。書棚には“quartos”の各種やアシュバートン文庫から二万ポンドで購入したといわれる“the first folio”の完全な一組が揃っていて、蔵書癖のある訪問者の目を羨ませがらしている。
問題は、ああした立派な作品をたくさん書き遺した天才がどうして斯んな小っぽけな店屋の片隅から出たかということである。シェイクスピアの家は代々百姓だったが、親爺さんのジョンは生れた村を見捨てて近くのストラトフォード・オン・エイヴォン(今日は人口一万余の小都市だがその頃は人口二千ほどの市場町《いちばまち》だった)に出て商売を始め、雑穀・毛物・肉類・皮類などで儲けて此の家を買い取り、一時は町会議員《オルダマン》を勤めて MR. の敬称を持つ身分にまでなっていたが、その後商売に失敗し借金に苦しむようになった。けれども頑強に此の家だけは手放さなかった。ウィリアムは四男四女の三番目で長男だったので、グランマー・スクールも中途でよして店の手伝いをさせられた。もちろんそういった家庭に後日の詩才を育て上げてくれるべきものがあっただろうとは思えない。それにもかかわらず、彼はカーライルをして全英帝国よりも重く評価せしめた詩才を作り上げた。それは家庭でも学校の教室でもなく、世間で鍛え上げたのだった。すべての人がシェイクスピアの真似をしたところで始まらないけれども、そのことは今日も考えて見なければならない問題である。
そんなことを話し合いながら、私たちは裏の庭園を一めぐりして見た。シェイクスピアの作品に現れた花卉樹木の類を集めた庭園で、月桂樹《ベイ》、梨《ペア》、山櫨《メドラ》、木瓜《ぼけ》に似た花を付けている榲※[#「木+孛」、第3水準1−85−67]《クインス》、ホーソーン、えにしだ、等々。かなりたくさんな種類で、一々名前が標示してあるから、私のような植物の知識の貧寒な者にも興味は湧くが、それを見て私は東京砧村にある市河君設計のシェイクスピア庭園《ガーズン》を思い出した。そうして、本場のと思い較べて見て、砧村のも相当なものだということを初めて気づいた。
五
ウィリアム・シェイクスピアは二十一歳の年ストラトフォードを飛び出してロンドンに出て、芝居道に入り、役者になったり、脚本を書いたりして、恐らく誰も予想しなかったであろう成功を収め、再び郷里に帰って来たのは四十七歳の時だった。その時はすでに父も母も死んで、ヘンリ通《ストリート》の家には伯母の家族が住まっていたが、シェイクスピアは町の目抜の通、礼拝堂通《チャペルストリート》から礼拝堂小路《チャペルレイン》へかけての角屋敷で、以前にサー・ヒュー・クロプトンといってロンドン市長を勤めたことのある人の屋敷を六十ポンドで買い取っていた。それを修繕して大屋敷《グレイトハウス》という名前を新屋敷《ニュープレイス》と改め、其処へ引っ越して一六一六年に五十二歳で死ぬまで六年間住まっていた。その外にも、町の郊外に百七エイカ(約百四十三町歩)の土地を買い込み、大詩人はまた同時に大地主でもあった。「おわりよきものはすべてよし。」
私たちは新屋敷《ニュープレイス》を訪問したが、今は美しい青芝の庭園となって、その間に桜草やダフォディルが咲いているだけで、シェイクスピアが晩年を過ごした家というのは僅かに残ってる礎石に依って想像するほかはない。その家は十五世紀にクロプトンの建てたもので、それをシェイクスピアの好みで模様替えしたのだから、もし今日まで保存されていたら非常に興味あるものに相違ない。本宅の外に、納屋二棟、庭園二つ、果樹園二つを包容したといわれるだけあって、大きな屋敷である。その庭園にはシェイクスピアが植えた桑の木があったが、十八世紀の中頃、当時その屋敷はガストレルという牧師のものになっていて、シェイクスピアの名声が世間に漸く高まった頃で、遠近から見物人が押しかけて来てうるさいというので、癇癪持ちの牧師はその木を伐り倒してしまった。「おれの屋敷に生えた木が一本ある。それを伐り倒して使いたいのだ。近いうちに倒さねばならぬ。」(Timon of Athens)。そんなことを書いたシェイクスピアは百五十年以前に癇癪坊主にとんでもないことを教えたようなものだった。ジョンソン博士はそれを憤慨して、ゴート人の蛮行《ヴァンダリズム》だと非難したが、そのくせ、婦人尊敬の癖を持っていた博士はリッチフィールドで牧師夫人と会食した時にはその共犯者に対して一言も非難の言葉を浴びせなかった。ウォシントン・アーヴィングがストラトフォードで逢った寺男は、もと大工をしていた男で、その仲間に例の木を伐り倒したのを自慢にしてる老人があった。スコットはその材木で造った箱を寺男に貰って喜んだ。今ではその桑の木の若芽を接木したと伝えられる老樹は庭の隅に枝をひろげて日蔭を作っている。
庭に接して立つ一つの建物は新屋敷博物館《ニュープレイスミュジーアム》と呼ばれ、ロンドンから蒐めて来たシェイクスピアの彫像が陳列されてあるが、もとはナシュの家と呼ばれ、シェイクスピアの孫娘のつれあいトマス・ナシュが住まっていた家で
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