、壁には一面に藤が絡んで握りこぶしほどもある蕾が褐色にふくらんでいた。
私たちは其処を出て、道一つ隔てた組合礼拝堂《ギルドチャペル》(十三世紀以来の歴史を持つ建物で、聖十字架《ホリクロス》と呼ばれ、内陣はクロプトンの改修)をのぞき、それに続く二階建の組合役所《ギルドホール》(イタリア風に改築された近代の建物)を見た。組合《ギルド》の名称の示す如く、町会は中世職業組合の宗教的な相互扶助的な組織の伝統の上に置かれたものだった。シェイクスピアの子供の頃は旅役者が巡業して来て組合役所《ギルドホール》の構内で幼稚な勧善懲悪的な寓意劇や史劇を上演し、少年シェイクスピアもそれを見物に行ったといわれている。
組合役所《ギルドホール》の二階はその頃から文法学校《グランマースクール》で(今日でも小学校に使われている)、そこへわれわれの憐むべきウィリは七つの年から泣き虫の勉強ぎらいの生徒として六年間通い、古代英語《オールドイングリシュ》の書体を稽古したり(彼は生涯イタリア書体は書かなかった)、ラテン語の初歩を暗誦したりした。われわれが子供の頃支那の古典を鵜嚥みに覚えさせられたようなものだっただろう。彼の受けた正規の教育といってはそれだけだったから、博学なベン・ジョンソンにひやかされて、ラテン語はぽっちり、ギリシア語はなおぽっちり、と言われても仕方はなかった。しかし、彼は、ベン・ジョンソンなどは比較にならないほどえらい仕事をした。
その次は詩人の墓に詣らねばならなかった。墓は聖三位一体教会《ホリトリニティチャーチ》の中にある。教会通《チャーチストリート》から古町《オールドタウン》を南へ下って、エイヴォンの川岸に出た所にあり、あたりには、川岸へかけて樹林が茂って、詩人の安息所にふさわしい。設計は長十字形で、中央の塔と外陣は十三世紀のもの、内陣は十四世紀のものだそうだ。写真では知っていたが、入ってまず驚いたのは、シェイクスピアの墓の意外に威張った位置にあることだった。内陣から一段高くなった聖壇《チャンセル》の北側にあって、平石で蔽われ、その上に詩人自らの選した有名な四句が刻みつけられてある。――
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Good frend, for Jesus sak forbeare
To dig the dust enclosed heare:
Bleste be ye[#「e」は上付き小文字] man yt[#「t」は上付き小文字] spares thes stones,
And curst be he yt[#「t」は上付き小文字] moves my bones.
よき友よ、イエスのために忍んで、ここに封じられたる屍《しかばね》を掘る勿れ。この石に触れざる人は恵まれてあれ、わが骨を動かす者は咀われてあれ。
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此の咀いの文句がなかったら、詩人の遺骨は或いは墓掘男の鋤にかかって骨寄倉《こつよせぐら》に投げ込まれたかも知れなかったのだが、詩人はそれを恐れてこういう文句を書いたのだろう、と、ウィリアム・ホールという人がシェイクスピアの死後七十七年目に此の墓を訪うてそう書いている。『ハムレット』の墓掘の場面で、ヨリックの頭蓋骨を投げ出した墓掘男の無知と無作法をば彼はよく知っていた筈である。墓穴を十七尺の深さまで掘り下げたのも、墓掘の無作法を恐れた詩人の遺志に因るものだといわれている。ヨリックの遺骨は二十六年目に掘り出されたけれども、幸いにしてわれわれの詩人の遺骨は爾来三百二十三年間一度も冒涜を受けなかった。妻や娘たちは、その中に一緒に埋めてもらいたいといったけれども、その時でさえ蔽いの石は動かされなかった。彼等の墓はシェイクスピアと並んで聖壇《チャンセル》に設けられ、ホーソーンの言葉を借用すれば、一家打ち揃って「教会の提供する最上の場所」を占有している。以前に此の教会第一の保護者であったサー・ヒュー・クロプトンの記念像でさえ側堂の片隅に置かれてあるに過ぎないのに。
しかし、それを以って早計にもストラトフォードの教会がシェイクスピアの詩才に敬意を表したものと思ってはいけない。今日でこそシェイクスピアといえば、世界最大の劇詩人といわれるけれども、彼は生前にそういった名誉を楽しむことはできなかった。死後といえども二百年間はそれほどの尊敬は払われなかった。それにも拘わらず教会堂内部の最上の位置を獲得したのは、彼が芝居の興行で金を儲けて、郷里に引退する六年前、大枚四百四十ポンドを投げ出して教区の十分一税《タイス》の権利を買い取って置いたからに相違ない。
詩人の記念像は墓の上の壁に高く取り付けられてステインド・グラスを通す陽光を浴びているが、石造の半身像が彩色[#「彩色」は底本では「色彩」]されてあるのは感心できない。伝うる所に依ると、グローブ座の近くに店を持っていて生前詩人の顔をよく見知っていたオランダの石工ヤンセンという男が、詩人の女婿ドクター・ジョン・ホールの依頼を受けて彫った物だという。片手で鵝ペンを持ち、片手で紙を押え、顎鬚をきちんと刈り込んで、いかにも幸福そうに顔を伸ばした相貌で、スコットやサー・シドニ・リーには評判がわるいが、(私自身もあまり感心しないが)、しかし、詩人の時代にできた二つきりの肖像の一つである。
内陣の西の隅のガラス箱に三百年前の教区登記簿が保存されてあり、係りの老人が大事そうにそれを開けて見せた。一個所には詩人の洗礼の日付と洗礼名が 1564 April 26 Guliemus Filius Johannis Shakspere(ジョン・シェイクスピアの息子ウィリアム)とラテン名で記され、また他の一個所には死んだ日付が 1616 April 25 Will Shakspere, Gent. と記されてある。生れた日は四月二十二日(或いは二十三日)であるのに二十六日と記入されてるのは、その頃は生れて三日目に洗礼を受ける習慣だったからだと係りの老人は説明した。その頃の洗礼盤は古くなって欠損したから、廃物として後園の片隅に長い間棄ててあったのを、洗礼された人がえらくなったので、また復活して今では大事に教会の中に飾られてある。
五十二歳で死んだシェイクスピアは死ぬ前に懸命に此の世に遺して行くべき骨のことを気にしていた。しかし、私たちはミルトンと共に
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What needs my Shakespeare for his honoured bones
〔The labours of an age in pile'd stones?〕
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といいたい。何となれば、彼は遣骸の上に石を積み重ねなくとも、彼自らを人類永久の記念物として作り上げたのだから。
六
私たちは一まずホテルに引き上げて預けて置いた鞄を受け取り、また水沢君がジョファになってくれて、ショッタリの村へ出かけた。十八歳の若者のウィリアムがやがて妻となったアンの家へ通った遺跡を見るために。
その村はストラトフォードの西一マイルほどの郊外で、今は中流生活者の住宅地となって煉瓦建の家が樹林の間にぽつぽつ見えるけれども、昔はもっと田園めいて、木材の骨組の現れた草葺のコッテイジばかりだったということである。途中でもそういった古いコッテイジを幾つか見たが、その最も代表的なのは私たちの訪ねたアン・ハサウェイの家である。
前には小さい川が流れて土手の並木の影を映し、コッテイジは二棟が一つのようにくっつけられ、大きな煉瓦の煙突が三つ藁葺屋根を高く突き抜いて居り、漆喰の白壁には太い樫《オーク》が歪《ゆが》みなりに竪横に組み合わされてある。周囲はことに気持よく、往来を仕切った無骨《ぶこつ》な木柵もおもしろければ、家の前に刈り込まれた植木も(刈り込み方は技巧を凝らし過ぎてはいるけれども)おもしろく、後園に通じる木柵と冠木門《かぶきもん》もしゃれたものであり、後園はよく手入れされて、うつろの古木の間にダフォディル、桜草、忘れな草、カーライト(卯の花に似て赤い花)、山吹などが、美しい青芝の上に咲き出ている。シェイクスピアの頃には斯んなによく手入れされていたかどうかは問題であるが、彼のローマンスを飾る背景としては似合わしい手入れの仕方である。
私たちは詩人自らの秘密の恋の場面をのぞくような好奇心を懐いてコッテイジの中へ入った。女学生らしい見物人が二三人一緒になった。床《ゆか》は石灰石で敷き詰められてあるが、時代がたって、でこぼこしている。台所には古風な大きな炉があり、ドアの隣りは食料品の貯蔵所で、居間の壁際にはひどく擦り減らされた木の腰掛が取りつけてある。此処に「うぶな若者」のウィリアムが八つ年上の農家の処女アンと腕を組み合わせて腰かけている図を描き出して見るとおもしろかった。後ではあらゆる恋の場面を書いたシェイクスピアではあったけれども、その頃は「彼よりも悧巧な」アンの方が恋の手ほどきをしてやったものかと思われる。
此の家の見物の一つの興味は、三百年前の自作農の生活状態を想像させるのに都合のよい家具類がそのままに保存されてあることで、古い陶器や白鑞《ピューター》の食器のほかに珍らしい革の徳利(牧場用)が天井から下っていたり、二階の寝室には彫のある寝台に「万年|敷布《シーツ》」がまだ昔のまま掛けられてあったり、今から見ると質素ではあるが、当時としては決してちゃち[#「ちゃち」に傍点]な物とは思えない物が多かった。アンの寝台には褥の代りに妹が蘆で編んでやったという茣蓙蒲団が重ねてあり、その上に古びながらもまだ赤い色のあまり褪せてないきれ[#「きれ」に傍点]が掛けてあるのも、女の寝室らしいなまめかしさが漂っていた。
ハサウェイの家は重代の自作農で、一種の郷士であった。アンは六人の子供(女三人と男三人)の一番上だった。シェイクスピアが彼女に求婚した時は、父のリチャードはすでに死んで、母のジョンが農事を宰領していた。もう春も闌けて、田園には夏らしい青葉が濃くなりかけていた頃、肉屋の息子と農家の娘の恋は芽を吹いた。訪問者は誰でもその家の窓際に金髪のアンが「朝露で洗われた薔薇《ばら》のようにかがやかしい」姿で、野を横ぎって来るウィリアムを待ちながら立ってるところを想像しないでは去らないだろう。二人の恋の場面は野の上でも牧場の上でも見られたであろう。肉屋の伜であった詩人は「恋は良心が何であるかを知るにはあまりに若い」と歌った。また「おお、物を教える甘い恋よ、お前が罪を犯したのなら、お前の誘惑したことわけを教えてくれ」と歌った。しかし、その頃彼は何を恋に教えられたか知らないが、記録の証明するところに拠ると、「恋の強い情熱」の結果は、その年(一五八二年)の十一月二十八日にショッタリの二人の百姓男を、ウィリアム・シェイクスピアとアン・ハサウェイの結婚許可を得るために、アンの母親の代人としてウォースターの監督牧師に願い出させた。一つは身分の上に於いて花聟の家の方が低かったためか、シェイクスピアの父の方は手続の上では無視されている。翌年五月初めの子供(娘)が生れ、更に二年後に双生児(息子と娘)が生れた。そうしてその年、彼は妻と子供と親と家を後にしてロンドンへ出た。
私たちはついでにシェイクスピアの母方の親戚なる郷士アーデンの屋敷がウィルムコートに在るというので、それをも見て行こうとして、田舎道を乗りまわしたけれども、捜し出せなかったので、そのままウォリクの古城をさして北東へ進んだ。
[#地から1字上げ](昭和十四年)
底本:「世界紀行文学全集 第三巻 イギリス編」修道社
1959(昭和34)年7月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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