んな小っぽけな店屋の片隅から出たかということである。シェイクスピアの家は代々百姓だったが、親爺さんのジョンは生れた村を見捨てて近くのストラトフォード・オン・エイヴォン(今日は人口一万余の小都市だがその頃は人口二千ほどの市場町《いちばまち》だった)に出て商売を始め、雑穀・毛物・肉類・皮類などで儲けて此の家を買い取り、一時は町会議員《オルダマン》を勤めて MR. の敬称を持つ身分にまでなっていたが、その後商売に失敗し借金に苦しむようになった。けれども頑強に此の家だけは手放さなかった。ウィリアムは四男四女の三番目で長男だったので、グランマー・スクールも中途でよして店の手伝いをさせられた。もちろんそういった家庭に後日の詩才を育て上げてくれるべきものがあっただろうとは思えない。それにもかかわらず、彼はカーライルをして全英帝国よりも重く評価せしめた詩才を作り上げた。それは家庭でも学校の教室でもなく、世間で鍛え上げたのだった。すべての人がシェイクスピアの真似をしたところで始まらないけれども、そのことは今日も考えて見なければならない問題である。
そんなことを話し合いながら、私たちは裏の庭園を一めぐりして見た。シェイクスピアの作品に現れた花卉樹木の類を集めた庭園で、月桂樹《ベイ》、梨《ペア》、山櫨《メドラ》、木瓜《ぼけ》に似た花を付けている榲※[#「木+孛」、第3水準1−85−67]《クインス》、ホーソーン、えにしだ、等々。かなりたくさんな種類で、一々名前が標示してあるから、私のような植物の知識の貧寒な者にも興味は湧くが、それを見て私は東京砧村にある市河君設計のシェイクスピア庭園《ガーズン》を思い出した。そうして、本場のと思い較べて見て、砧村のも相当なものだということを初めて気づいた。
五
ウィリアム・シェイクスピアは二十一歳の年ストラトフォードを飛び出してロンドンに出て、芝居道に入り、役者になったり、脚本を書いたりして、恐らく誰も予想しなかったであろう成功を収め、再び郷里に帰って来たのは四十七歳の時だった。その時はすでに父も母も死んで、ヘンリ通《ストリート》の家には伯母の家族が住まっていたが、シェイクスピアは町の目抜の通、礼拝堂通《チャペルストリート》から礼拝堂小路《チャペルレイン》へかけての角屋敷で、以前にサー・ヒュー・クロプトンといってロンドン市長を勤めたことのある人の屋敷を六十ポンドで買い取っていた。それを修繕して大屋敷《グレイトハウス》という名前を新屋敷《ニュープレイス》と改め、其処へ引っ越して一六一六年に五十二歳で死ぬまで六年間住まっていた。その外にも、町の郊外に百七エイカ(約百四十三町歩)の土地を買い込み、大詩人はまた同時に大地主でもあった。「おわりよきものはすべてよし。」
私たちは新屋敷《ニュープレイス》を訪問したが、今は美しい青芝の庭園となって、その間に桜草やダフォディルが咲いているだけで、シェイクスピアが晩年を過ごした家というのは僅かに残ってる礎石に依って想像するほかはない。その家は十五世紀にクロプトンの建てたもので、それをシェイクスピアの好みで模様替えしたのだから、もし今日まで保存されていたら非常に興味あるものに相違ない。本宅の外に、納屋二棟、庭園二つ、果樹園二つを包容したといわれるだけあって、大きな屋敷である。その庭園にはシェイクスピアが植えた桑の木があったが、十八世紀の中頃、当時その屋敷はガストレルという牧師のものになっていて、シェイクスピアの名声が世間に漸く高まった頃で、遠近から見物人が押しかけて来てうるさいというので、癇癪持ちの牧師はその木を伐り倒してしまった。「おれの屋敷に生えた木が一本ある。それを伐り倒して使いたいのだ。近いうちに倒さねばならぬ。」(Timon of Athens)。そんなことを書いたシェイクスピアは百五十年以前に癇癪坊主にとんでもないことを教えたようなものだった。ジョンソン博士はそれを憤慨して、ゴート人の蛮行《ヴァンダリズム》だと非難したが、そのくせ、婦人尊敬の癖を持っていた博士はリッチフィールドで牧師夫人と会食した時にはその共犯者に対して一言も非難の言葉を浴びせなかった。ウォシントン・アーヴィングがストラトフォードで逢った寺男は、もと大工をしていた男で、その仲間に例の木を伐り倒したのを自慢にしてる老人があった。スコットはその材木で造った箱を寺男に貰って喜んだ。今ではその桑の木の若芽を接木したと伝えられる老樹は庭の隅に枝をひろげて日蔭を作っている。
庭に接して立つ一つの建物は新屋敷博物館《ニュープレイスミュジーアム》と呼ばれ、ロンドンから蒐めて来たシェイクスピアの彫像が陳列されてあるが、もとはナシュの家と呼ばれ、シェイクスピアの孫娘のつれあいトマス・ナシュが住まっていた家で
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