シェイクスピア(詩人の父)の住宅、東側の半分は店に使われていたと伝えられるが、それについては異説もあり、東側の半分は住宅で、店は西側だったのではないかともいう。そういわれると、そうのようにも思えるけれども、よくわからない。確実にわかってることは、ジョン・シェイクスピアが此の家を所有して、此の家に住んでいたということだけである。随ってウィリアム・シェイクスピアが此の家で呱々の声を揚げたということは信じてよい。
 入場料は一シリングで、西側の謂わゆる住宅の左寄に入口がある。下は居間と台所と他に小部屋が一つ。詩人の誕生の部屋として伝えられてるのは往来に面した二階の一室で、天井は低いが相当な広さを持ち、柱も太く、暖炉も大きく、壁の漆喰《しっくい》の下からはところどころ修覆に使った古煉瓦が露出している。室内はもちろんがらんどうで、ドアを入った右手に詩人の大きな胸像がテイブルの上に飾られ、その傍に此の粗末な部屋にはふさわしくない見事な彫のある櫃が一つと椅子が一脚置いてあるきりだ。イギリス国内はもとより、全世界から毎年八万人以上の訪問者(その四分の一はアメリカ人)があるというのも、主として墓と共に此の部屋を見るためで、謂わば一種の聖祠の如きものである。
 此の部屋の特色とされてるものは、壁と天井の窓框の到る所に一面に書き散らされた訪問者の署名で、眼鏡をかけた案内人の小さな婆さんが、その中にはウォルター・スコット、カーライル、サミュエル・ジョンソン、バイロン、サッカリなどの名前も見出せるといったけれども、私はそういった人たちの筆蹟の真偽を判定し得るわけでもないから、捜すことはしなかった。それに私は近視十度の眼鏡をかけているが、実際は半分遠視になりかけて、少し距離のある細かい文字は判読しにくいので、尚更あきらめるよりほかはなかった。しかしおもしろいことに、壁も天井も一面の落書で此の上もう記入する余地がなくなったので、署名希望者は誕生日に来て別に一シリング出せば、壁の代りに記名帳に署名させることになってるそうだ。だが、金を出して帳面に記入するのでは、落書の興味は感じられないだろう。そんな人たちは自由にジョンソンやカーライルと肩を並べて署名した先輩を羨ましがっているだろう。
 下の台所には珍らしいものが二つあった。一つは石畳の土間から一本の小さい柱が天井まで抜けていて、低い所に横木が通してある。何にするものかちょっとわからなかったが、婆さんの説明によると、子供がその横木につかまって押すと柱が廻るようになっている。しかしウィリがそれにつかまって独り遊びをしていたとは婆さんは断言しなかった。今一つは棚の上に載せてある古風な|鼠おとし《マウストラプ》で、二尺に一尺ほどの箱に簡単な枠《わく》を立て、枠の心棒から箱の片側の横木に糸が張ってある。婆さんはそれを指ざして、『ハムレット』に使ったのはこれです、といった。劇中劇の場面で、王が此の芝居は何という外題だと聞くと、ハムレットは The Mouse−trap(鼠おとし)と答える。はて、どうして? たとえごと。と自問自答の言葉がつづく。王の良心を罠にかけて見ようとするハムレットの魂胆を、シェイクスピアが子供の頃台所の片隅で見覚えていた此の捕鼠器から思いついたものだとすれば、たとえごと[#「たとえごと」に傍点]という所に人のあまり使わない tropically なんて変な言葉を使った心理にも、その副詞は trope という名詞から来て、figuratively と同義語になったもので、trope は元来ギリシア語の tropos(転回)から出たのだなどと、そんなうるさいことは言わなくとも、少年のウィリがいつも此の器械に鼠のかかる時枠の心棒につないだ小さい横木の廻転するのを興味深く見ていた印象が残っていて、それを trap に似た語感の上から使って見たくなったものではなかろうか、と、そんな学究もどきの役にも立たない屁理窟をこね廻して喜んだりするのは、蓋し、学究なんてものをば初めから無視していた天才の真骨頭を体得していないからだろう。
 |鼠おとし《マウストラプ》はそのくらいにして今度は詩人の親爺さんの店へ案内しましょう、と婆さんに促され、東側の家に入って行くと、其処は博物室《ミュジーアム》と図書室《ライブラリ》になっていて、詩人に関する多くの遺物と肖像画出版物などが陳列されてあり、詳細なカタログが一シリング六ペンスで売られている。それを抜き書きする労力は省きたい。書棚には“quartos”の各種やアシュバートン文庫から二万ポンドで購入したといわれる“the first folio”の完全な一組が揃っていて、蔵書癖のある訪問者の目を羨ませがらしている。
 問題は、ああした立派な作品をたくさん書き遺した天才がどうして斯
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング