ていた。たまらなく咽喉が渇いて水が欲しくなり、夜にまぎれて脱け出して、村はずれの井戸に水飲みに出かけると、向うからも黒い影が二つ三つ忍び寄って水を捜しに来る者がある。たしかに敵兵だとわかってはいたけれども、こっちも撃とうとはしないし、向うも懸かろうとはしない。黙って水を汲んで別れてしまう。そんなことがよくあったそうだ。その時は(原本十五字伏字)お互いに人間に返っているので、憐みと同情が双方の心に湧いていたのである。
その興味ある話を聞かしてくれたショファは頑丈な骨格をした四十男で、ヴェルダンで多くの戦友を喪い、自分も左の腕をやられて死にかけていたのが、恢復して自動車の操縦ができる程になったのだといった。また戦争が始まったら出なければならないのかと聞いたら、負傷して免役になったからもう出ないだろうといっていた。戦争は怖いだろうというと、戦争は怖いといっていた。
今一つ似たような話を私たちはエスパーニャでも聞いた。最近の内乱で赤軍と白軍と対立して諸所で戦った。私たちはブルゴスからマドリィへ行く途中で、車を停めてその塹壕の幾つかを覗いて見た。塹壕の距離は敵と味方と近い所は二十メートルとなかった。不思議に思ったのは、赤軍の塹壕と白軍の塹壕と対抗し、白軍の塹壕の向側にまた赤軍の塹壕があり、その先にまた白軍の塹壕があるといった風に、何のことはない塹壕のだんだら染が出来上ってるような箇所があった。それ等には今一一標柱が立てられて、其処も一種の見せ物となっていた。また、赤軍といい、白軍といい、初めは思想的対立であったが、後では必ずしもそうでなく、むしろ行政区劃的対立となって、Aの村の者は全部赤軍に編入され、Bの村の者は悉く白軍に召集されるといったような奇観を呈し、それがため、兄弟別れ別れに敵味方の塹壕に対峙するというようなことも少からずあった。これは戦線に立って実戦を見た矢野公使の話であるが、ある時白軍の塹壕の中にいた兄が首を出すと、赤軍の塹壕の中から射撃しようとして狙ってる者があった。見ると弟だったので、おい、おれだぞ、と、どなって銃を下させたというようなこともあった。そんな風だから、冷静に考えると、何のために戦争をしてるのかわからなくなることもあったらしい。おもしろいのは、夜になると敵の塹壕でレコードをかけてダンスを始め出すと、その調子に合せて味方の塹壕でもダンスをやるとい
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