て吊してあったりするのが、いたましかった。
 そこから道を隔てて向側の窪地は、ラヴァン・ド・ラ・モール(死の谷)と名づけられ、今は灌木が深深と茂ってるけれども、その当時は死屍累々の恐ろしい光景を呈した所だという。私は道ばたに咲き出た松虫草の花やひるがお[#「ひるがお」に傍点]の花に明るい陽光の降り濺いでる静寂の中に彳んで、阿鼻叫喚の修羅の光景を実感して見ようとしたけれども、あまりにも平和な今の環境は全くそれを不可能にした。
 また車に乗って西北二十三キロの高地なるモン・フォーコン[#「モン・フォーコン」は底本では「モス・フォーコン」]へ行く間には小さい村落を幾つか通り過ぎたが、他のフランス軍の墓地も一つ二つ見た。モン・フォーコンはドイツ軍の有力な陣地の一つで、それをアメリカ軍が占領したので、アメリカの建てた高い戦捷記念石柱が聳え立っている。柱の頂上の台座には左手に炬火を捧げた男の像が立ち、下の台石には一九一八年にアメリカ軍の占領した四つの地名が刻んである。ムューズ高原・バリクール高原・ロマーニュ高原及びアルゴンヌの森。しかし、アメリカ軍は戦争の終末に近づいて不用意に勢《きお》って飛び込んで、かなりひどい犠牲を払ったのだということだ。記念柱の下にはアメリカ人らしい遊覧客が車を二三台乗り捨てて眺めていた。
 私たちは記念柱の裏の高地に登って、物凄く破壊された寺の跡を見てまわり、ついでにロマーニュの戦跡を訪ねて、アルゴンヌの森を抜けた。ロマーニュにはシメティエ・アメリケエン(米軍共同墓地)があり、付近にはシメティエ・アルマン(独軍共同墓地)が二つほど見られた。後者では十字架が黒く塗られてあった。黒と白と色は塗り分けられても、こうして死んでしまえば敵も味方もなく、恐らく彼等は人生を寝ざめのわるい一場の(原本三字伏字)夢と観じて、それさえも今はあらかた忘れ果てているだろう。天よ、気の毒な子供たちに平安を与え給え!

      四

 死んでしまえば敵も味方もなくなると言ったが、生きてる時でさえ敵も味方もなくなるという一つの実例を私たちは私たちのショファに聞いた。彼は二十年前フランス軍の一兵士としてヴェルダンの戦線に出ていた。この辺でのことだったといって指ざしたのがヴォーの塁砦の付近だったように記憶するから、ヴォーかスーヴィルかでの出来事だろう。敵と味方が短距離で対抗して戦っ
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