Aまるで自分たちには拘わりのないことのようなのんきな顔をして見物に出かけているのである。
 見物のコースは、ヴォーからもう一度スーヴィルに戻り、北へ東へ回って、今度はドーモンの塁砦に辿りついた。ここはヴォーよりも一段と規模が大きく、穴の中の営舎も数多く、まるで地下街のようだ。感心したことの一つは、どこの穴倉の営舎にも必ず礼拝堂があることで、宗教は近代に入って人の霊魂を支配しなくなったとはいわれるけれども、それでも、カトリックの国々では殊に、宗教から全く絶縁した生活は見られないが、生命を賭けての戦場では一層それが必要されるものと見え、ヴェルダンだけではなく、エスパーニャに行ってトレドーのアルカサルの白軍籠城の営舎を見た時も、其処に礼拝堂を発見して心を動かされたことがあった。若い兵士たちが戦死する時、最後に呼びかける言葉は母の名でなければマリアの名だと聞いている。
 ヴェルダンで戦死した兵士たちの共同墓地へ行く途中、大きな瀕死の獅子の彫像を載せた石の台を左に見た。百三十師建設記念碑と銘してあった。ドイツ軍は北方から攻めて来てこの地点から先へは進めなかった。その付近も一面の樹林である。停戦当時は砲火のため樹林は根こそぎ失われてしまい、夥しい戦死者の遺骨と兵器が散乱していたそうだが、今日ではむしろ公園のような外貌を持っている。
 戦死者共同墓地は、フランス軍のはシメティエ・ナシオナールという名が付いている。ドーモンの塁砦を東北に見はるかす高地の上に素晴らしく大きな蒲鉾型の納骨堂が横たわり、その中央に高い燈台塔が立っている。そうしてその前面の斜面に白い十字架の墓標が何千か何万か数えきれないほど整然と列んでいるのが、一目に見わたすと、さながらオランダで見たテューリップの畑のようだ。納骨堂の中には、身内の人たちでもあろうか、花などを持った参詣者も少からず見受けられた。
 それから西の方へ車を廻わすと、トラセエ・デ・バイオネット(銃剣の塹壕)と呼ばれる記念館がある。コンクリートの廻廊風の建物で、床は塹壕をそのままに残して銃剣が幾つも突き刺さっている。或る物には珠数を掛け、或る物には一枝の花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、また或る物には 〔Terre《テル》 de《ド》 Vende'e《ヴァンデェ》〕(故郷の土)と記した袋に一握りの土を入れ
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