な生活に入った。けれども彼の製作欲は衰えなかった。以前にエスパーニャの圧迫から切り抜けて自由になっていたオランダは、今度はイギリスと戦争を始めて窮乏に見舞われ、極度の恐慌が疫病と共に来襲した。逆境のレンブラントはそのあおりを喰って高利貸に責め立てられ、遂に破産した。ユダヤ人の部落に蟄居《ちっきょ》して悲惨な生活をつづけたけれども、誰も助ける者はなかった。しかし彼の製作欲はますます熾烈《しれつ》を加えた。貧苦と労作のため、五十に近づくと肉体は頓に衰え、壮年の頃逞ましく見えていた顔は縦に深い皺が二つ刻まれてあったが、今やそれを横ぎって横に幾つもの皺が波打つようになった。そうして、皮膚はたるみ、目は曇って来た。けれども製作欲の火は果しなく燃えつづけた。遂に五十二歳で瞑目した時、彼は殆んど乞食同様の境涯に落ちて、地上に一物の所有品をも持たなかったが、数えて見ると四十年聞に約七百の作品を遺した。そのいずれを見ても、魂の躍動を感じないものはないが、殊に晩年の作品だけが深刻で調子の高いものがあるのはすばらしい。自画像だけでも約五十を数え、そのうち二十は晩年の自画像で、晩年も最後の自画像に近づくだけ、加速度的に心境の飛躍を感じさせるのは驚嘆すべきである。

    五

 レンブラントの作品は、他の大家と同様に、世界中に散ってしまって、本国のハーグとアムステルダムの博物館では二十三、四しか見られない。それでも大作が集まってるのと粒が揃ってるので、見ごたえがある。
 ハーグのマウリツハウスでは「解剖講義」(一六三二年)と「殿堂の披露」(一六三一年)と「サウルの前で竪琴を弾くダヴィデ」(一六六五年頃)が目立った。
 殊に「解剖講義」は一度見ると決して忘れることのできない画である。中央に裸にされた男の屍骸が仰向けに足を踏み伸ばして横たわって居り、その左腕の下膊筋だけが皮膚を剥ぎ取られて赤く露出している。その芋茎《ずいき》のような筋《きん》の束をピンセットで鋏んで示しているのはトゥルプ教授で、彼は当時オランダで一流の解剖学者であり、またレンブラントの保護者でもあった。教授の右側(画面の左側)には五人の同業者が熱心にのぞき込んでそれを見ている。屍骸を隔てて教授と向かい合った位置(画面の左の隅)には二人の男が講義を聴いている。聴講者はその背後にもまだ幾人か並んでいるのであろう。何となれば、講義者トゥルプ教授の視線はその二人の頭を越して画面の外に投げられてあるから。これはレンブラントの構図にしばしば見る特長で、事件がややもすればカンヴァスの範囲外に及ぶ。
 一体、解剖のデモンストラティオンといったようなものは普通人には面を反向けられがちなもので、今日でも日本では大学・専門学校の解剖学の実習以外には公開されないことになってるようだが、オランダは三百年前からその方面の科学的進歩はいちじるしく、前野蘭化・杉田玄白等の学徒が初めて西洋科学を受け入れたのもオランダの解剖学であった。しかし、解剖のデモンストラティオンを画題として考えると、いかにも散文的で、味のないもので、下手に描いたら徒らに醜悪を暴露するに過ぎないような結果にならないとも限らない。オランダには、レンブラント以前に、この種の画題を取り扱った画家はたくさんあって、皆似たり寄ったりの構図で、教授と屍骸をまん中に取り囲んで輪を作ってる聴講者の群を描くのがきまりであった。しかるにレンブラントは、トゥルプ教授の依頼を受けてアムステルダムの外科医組合のために組合員の顔を描くことになった時、まず上に述べたような構図を考え出したのであった。画の性質がもともといわゆる組合員肖像画の注文であるから、各自の似顔を描かねばならないのである(その氏名は画の中の一人が手に持ってる紙に記されてある)が、画家としてはそれでは満足しきれなかった。で、彼は驚くべく犀利《さいり》な透視力を以って各自の顔を通して性格を読み取り、それをいつまで見ていても飽きることのない生きた表情として描き出した。
 画面を一瞥してまず感じるものは、一人の死んだ男と七人の生きてる男の対照である。裸にされた血の気《け》のない青白い肉体と、着物で包まれた赤赤した顔の対照である。それ等の顔には目が光って理知が閃いている。七人は、教授(だけは帽子をかぶってる)を除いて皆無帽で、黒の服に白の飾襟を附け、赤い鬚を生やしているが、表情と姿勢はそれぞれの性格を表わして、まちまちである。一致してる点は講義する教授の言葉の理解に注意を集めてることである。それをばピンセットの尖に持ち上げられた腱を凝視しながら理解しようとしてる者もあれば、空《くう》を睨んで理解しようとしてる者もある。主題となってるものを求めれば「科学に対する情熱」とでもいおうか、それがこの画を緊密に統一している。生命
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